四街道駅
四街道市内にある2つの駅のうちひとつJR四街道駅。写真は北口。こう見えても一応、表口である。2003年に小さいながらも駅ビルが完成。「小さい」とはいえ、千葉から下った成田・銚子方面で、他に駅ビルがある駅は恐らく無いんじゃなかろうか?
千葉県初の鉄道である総武鉄道の「市川~佐倉」間が開通したのは明治27年のことで、四街道駅の歴史は思いのほか古い。
ここから都心部までは約40kmで、アクセスもまずまず。東京駅まで快速電車で約45分。「成田エクスプレス」の一部や、通勤特急も停車する。
四街道十字路
JR四街道駅西口から線路沿いを500mほど南に行ったところにある、交通量が多く、道幅の狭い交差点。明治13年、ここに置かれた私設郵便局の名称が「四街道」だった。以来、四街道の地名の由来と言われる場所。
成田山道、千葉町道、登宇かね(東金)・馬渡道、東京・船橋道の4つ街道がここでX型に交わっている。
壊れかけた竹の柵の中には榎の大木と古い石塔。石塔は「四街道郵便局」が置かれた翌年明治14年のもの。四街道発祥の地としてはかなり地味な存在で、完全にガソリンスタンドの敷地の一部と化している。もう少し、それらしくして欲しいなあ。
(※四街道十字路の大榎は2013年5月6日の強風により根元から裂け、倒木の危険が生じたため、惜しまれつつ伐採されました)
松並木通り
四街道駅の北口からまっすぐ伸びた道路には、松並木があり昔日の街道の趣きを残している。樹齢は100年を超える物が多い。幹には、戦時中に松根油を採った跡も残されている。
2005年2月「精工舎」工場跡地に「イトーヨーカドー新四街道店」が開店。これに伴い、駐車場出入口確保のため何本かは切られてしまった。
四街道市役所
終戦時までは軍都だったという四街道。当時、陸軍野戦砲兵学校だった場所に四街道市役所はある。戦後しばらくは、建物をそのまま使っていたらしい。
正面入口からみえているのは本館。この奥に別館・新館がつながっていて、ごちゃごちゃした造り。
四街道市消防本部・署
駅北口側のランドマーク的な建造物「四街道市消防本部・署」。人口8万の地方都市の割には立派な消防車が配備されている。
高いビルなんて無いのに、はしご車が2台もあるし、ナンバープレートは「119」で統一されてるし・・・。
>近年更新配備された車両には、全国的にも見ることが少ない貴重な車両が導入されている。その理由の一つとして緊急消防援助隊で千葉県隊が出場する地域に北海道方面が指定されている事を考慮し、寒冷地に冬季期間派遣されても隊員・車両共に支障なく活動できるようにする為である。
・トラックベースの高規格救急車
・『トライハート』(札幌ボデー工業製)
・後方支援車(札幌ボデー工業製)
・化学車(田井自動車工業製)
・水槽付ポンプ車(田井自動車工業製)
・特注フロントライト仕様の先端屈折式はしご車(日本機械工業製)
・日本初となるアルミ製屈折はしご付ポンプ車『マルチスター』(マギルス、モリタ製)
上記の車両は、派手なデザインのマーキングと他の消防本部の倍の赤色点滅灯、自発光式ナンバープレート(ヘッドランプ作動時に連動)を施している。今でこそ大阪サイレン製のサイレンアンプシリーズは全国的にも知られるようになったが、企画立案したのは四街道消防である。さらに日本で初めて二輪車(ヤマハ・マジェスティ)をベースにした小型水槽付きの消防車"ミストドラゴン"(日本機械工業製)が導入されているなど、消防車の革新にも力を入れている。
(ウィキペディアより)
四街道って、消防先進国だったのね。
大土手山
黒船の来航に伴い幕府から砲術整備の命が下った佐倉藩は、砲術練習場である「下志津火業場」を設置。
この際に、大砲の標的として築かれたのが「大土手山」。
明治6年に砲術師範として招聘したフランスのルボン砲兵大佐にちなみ「ルボン山」と呼ばれるようになった。当時の射的場は南北3,000m、幅はルボン山を中心に300mの規模であった。
ちなみに・・・
大土手山から北へ約4kmの佐倉市下志津原には「日本砲兵揺籃の地」の石碑がある。
ここは佐倉藩の「下志津火業所」があった地。明治19年には「陸軍砲兵射的学校」が創設された。
当初はここから南(大土手山方向)に射撃を行なっていたが、明治27年の四街道駅開業に伴い、安全面と運用面から射的学校は明治30年に四街道に移転。以後は南北反転して射撃を行なったとのこと。
砲兵学校跡
明治19年に下志津原に創設された「陸軍砲兵射的学校」は、明治30年に名称を「陸軍射撃学校」とし四街道へと移転。さらに、大正11年に「陸軍野戦砲兵学校」と改称された。
戦後、砲兵学校の校舎は「千葉女子師範学校」を経て「国立千葉大学四街道校舎」などにも利用されたのち、「精工舎」の工場となった。
工場閉鎖後、長期に渡って広大な空地となっていた工場跡地は長い間再開発工事中だったが、2005年3月にイトーヨーカドー新四街道店がオープンした。
(左)野砲榴霰弾
(手前)野戦重砲榴弾
(中)野戦重砲榴弾
(右)野戦重砲破甲榴弾
四街道市文化センター
四街道市役所の斜向かいに建つ四街道市文化センター。図書館やブライダルセンターなどが併設されている。
平成13年2月18日、ここでテレビ東京「開運なんでも鑑定団」の「出張鑑定in四街道」の収録が行なわれた。市制施行20周年記念に催されたこのイベントを見に行った私と母親とあこの3人。収録時間は2時間強。これに対して放送時間は約15分間であった。
桜並木
四街道市役所から中央公園まで続く「桜通り」と呼ばれる約500mの通り。
ちなみに、四街道市の木も「サクラ」。並木の向こう側は、かつて「精工舎」の工場があり、長い間空き地となっていた。現在は再開発の工事が進み、イトーヨーカドー新四街道店や高層マンションが建っている。
中央公園
春は花見、夏は「ふるさとまつり」で盆踊りと花火も行なわれる中央公園。野球場、武道場、テニスコート、プール、屋根付きゲートボール場などもある。
愛国学園正門前
在りし日の軍都:四街道の趣きを一番残しているのはここかも知れない。
かつての「陸軍野戦重砲兵第4連隊」跡地に建てられた「愛国学園付属高等学校」。写真はその正門前。
重厚なレンガ造りの門柱や塀。そこから真っ直ぐに延びる並木道。両側の建物は新しい校舎になっているものの、充分に当時の雰囲気を偲ばせる。銃を担った歩哨が立ち姿が目に浮かぶ様だ。
正門右手にある「陸軍野戦重砲兵第4連隊」の石碑。埋め込まれた銅板には隊の設立から終戦・解隊までの歴史が刻まれている。酸化による変色で、非常に読みづらいのだが要約すると・・・
・野戦重砲兵第4連隊は近衛師団に所属
・大正11年に広島から移駐
・満州へ移動後、ノモンハン事変に参加
・太平洋戦争では南方に転用され、ガダルカナル及びブーゲンビル両島で死闘を重ね現地で敗戦を迎える
四街道公民館
周囲をグルッと高さ1m程の土手に囲まれ、その土手を切り通して造られた入口は、およそ「公民館」に似つかわしくないレンガ作り。
「陸軍野戦重砲兵第4連隊」跡地の石碑がある愛国学園と道路を隔ててすぐ隣にあるここは、その野戦重砲第4連隊の将校集会所だった場所。
赤レンガの門柱
住宅が立ち並ぶ路地の一画にそびえる赤レンガの門柱跡。軍都:四街道の名残を今に残すモニュメントのひとつ。しかし、看板や説明書きなどはなく、ぼんやりしていると通り過ぎてしまいそうだ。
左右対象であったであろう門柱は現在、片側を残すのみ。もう片方はコンクリート製の台座だけが残っている。
邪魔という程でもないので、わざわざ引き倒したとは考え難い。片方だけが老朽化したとも思えない。一番ありそうなのは交通事故。トラックの荷台でも引っかかったのではなかろうか?すぐ近くにはスーパーの物流センターもあるのだ。
紹介した場所