東関東自動車道
市中心部の北側を東西に横切る「東関東自動車道」。首都高速湾岸線からつながるこの高速道路は、千葉市内で京葉道路と交差して、終点の茨城県の潮来までを結んでいる。
「習志野~成田」間は片側3車線、「成田~潮来」間は片側2車線となる。
四街道インターからだと、東京都内までは朝夕の混雑時でも60~100分、成田空港までは通常25分位。
県立千葉盲学校
前身は明治時代の「鍼按講習所」。昭和8年、その運営を県に移管して「県立千葉盲学校」となる。
現在の場所へ移転したのは昭和44年のこと。当時、学校の周辺に家々は少なく、落花生畑が広がっていたそうだ。
ゆったりとした敷地。裏手には芝生がキレイなグラウンドがあり、そこでは地域の夏祭なども催される。駅から盲学校までは約2kmの道のりだが、その間には点字ブロックが続いており、盲人用信号も完備されている。
鹿放ヶ丘
ここ鹿放ヶ丘を含む広大な下志津原地域は、明治維新後の陸軍創設期から終戦までの約80年間「下志津演習場」であった。
戦後、食料増産の目的から荒野だったこの地の開拓のため「下志津開拓団」が結成される。多数の復員軍人や満州などからの引き上げ者の人々、開拓に携わったとのこと。
「ろっぽうがおか」の地名は、佐倉藩が鹿狩りを行なった地であることに由来し、戦後に名付けられたそうだ。現在は、その鹿放ケ丘の真ん中を東関東自動車道が東西に横切っている。
鹿放ヶ丘神社
集落の中にある敷地の広い神社。神社との組み合わせには違和感があるが、境内の西寄りには墓地もある。
広々とした境内の割りには小さなお社。振り返ると、参道がグランドを横切っている。これは土地の有効利用の知恵か?それとも、神をも恐れぬ合理主義なのか?車両進入を防ぐ柵には、なぜか県道番号が記された標識が再利用されている。
遠近五差路
四街道市鹿放ヶ丘と千葉市稲毛区山王町の境界にある五差路。
遠近(とおちか)とは「トーチカ」を意味し、かつてはこの交差点の北西(写真の看板だと右上の方角)にトーチカが置かれていたらしい。
この地にあったトーチカとは、砲撃訓練時に着弾観測を行なう「監的」と呼ばれる施設だったとのこと。
五差路から真東に約2.5km進めば、砲術標的だった大土手山(ルボン山)に至る。小型の野砲でも十分に射程圏内。現在と違い原野だった当時は、遠近五差路から大土手山は目視出来たに違いない。
内黒田大谷
東関東自動車道の北に細長く伸びる、両側を小高い丘に挟まれた地域。手繰川がチョロチョロと流れ、水田が広がっている。クネクネと続く田舎道には、犬の散歩やジョギングをする人の姿が見える。
ここは、印旛沼の干拓事業によって農地となったものとのこと。手繰川は印旛沼に注ぐ新川まで続いている。
谷から丘にあがる途中の雑木林の道に現れる「内黒田大谷の萬延元年庚申塔」。四街道市指定文化財に認定されている。
木々の生い茂る細い坂道は古えの街道の風情を残している。
ああ内黒田の大榎
四街道十字路から距離にして一里。内黒田地区の中央部「馬作場(まっくれば)」に聳え立つ榎の大木(樹齢不明)。
そういえば、四街道十字路の大木も榎だったが、これは単なる偶然ではなくて、江戸時代には多くの一里塚に榎が植えられたのだそうだ。
「古えの旅人達の目印だったのだろうな」とか「木陰でちょっと一服などしたのだろうな」などと想像を膨らませるものの、江戸時代にはもっと全然小さかったに違いない。
幹の太さは、大人2人で手を廻した位。道路と比べるとその立派な枝っぷりが良く判る。
内黒田の馬頭観音と庚申塔
内黒田の大榎のすぐ脇の民家の敷地内にある馬頭観音と庚申塔。道路からスチール柵の向こう側にある3基の石像の撮影は苦労する。庚申塔は1番左の1基だけで、右の2基は馬頭観音。
池花橋
内黒田地区と千代田地区を結ぶ池花橋。3連アーチの橋が池の上をまたいでいる。水面が見えているのは岸に近い数メートルだけで、中心付近は葦や浮草が生い茂っている。
岸には釣人達の姿。じっくりと座っている人は鮒釣りだろう。ルアー釣りはバス狙いだろうか?
橋の向こうのタンクは浄水場。水が飲料水になるのか・・・。
右手の土手の上には、千葉内陸バスのターミナルというか転回所があり、退屈そうにバスが1台止まっている。橋の西側が内黒田地区で「バードヒル池花」と呼ばれる比較的新しい住宅街。橋を渡って東側は千代田団地となっている。
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