エッシネン湖
8月16日水曜日。顔の皮が突っ張るのを感じつつ目覚める。鏡の中の顔は日焼けで赤黒い。続いて、窓の外を見る。インターラーケン方向は晴れているが、ラウターブルンネンの谷は雲が流れ込んで来ている。
昨日の夕方は端っこあたりが見えていたユングフラウも、今朝はわざわざ確認に行くまでもなく見えないに違いない。日程も終盤に入り天気の読み方がわかってきた感じ。
それに明日もある。明後日だって、夜までにチューリヒに入れば良いので、午後の早い時間までは大丈夫。この日程的な余裕は大きい。これが心の余裕となって、誤った判断を防いでくれる。
去年のように焦っていると、天気が回復することに賭けて、がむしゃらに山へ向かっていたに違いない。
今日はさっさと山を諦めて、どこか町にでも行こうか?去年行ったベルンでもいいなぁ。シャーロックホームズ最期の地マイリンゲンは?どれも魅力。
結局、昨日近くを通過したエッシネン湖を目的地にしたのは、「曇り空でも神秘的」というガイドブックの一文があったから。
昨日通った道を走ること約1時間。エッシネン湖へのリフト乗り場に到着。雲は多いがまずまずの空模様。ここのリフトはスイスハーフパスが使えた。昨日のカートレインは使えなかったが、この辺の線引きはよく判らない。
リフトはペアシートだが、普通のとちょっと違う。進行方向に対して椅子が直角になっている。つまり、横向きに進んで行く訳だ。
ガイドブックの地図では想像出来なかったが、かなりの急斜面をリフトは登って行く。下は牧草地で、つづら折りのトレッキングルートがある。そこを歩いて登って行くグループの上を通過するが、彼らの表情は相当辛そう。
カンデルシュテークの町がたちまち小さくなっていき、やがてリフトは雲のなかに突入。山を避けようと思っていたのに、結局は山の上に行くことになる。
リフトの山頂駅は雲の上だった。
駅から湖まではなだらかなアップダウン。後ろから日本人中高年の集団が来るのでそれに追い付かれないように歩くが、あこがほどけた靴ひもを結んでいる間に追い抜かれる。
やがて、エッシネン湖が現れた。
波ひとつないエメラルドグリーンの湖面。雲は低い。湖の周囲は断崖で、幾筋もの滝が流れ込んでいる。湖畔の浜にはボーイスカウトの集団がいて、お弁当を食べながらワイワイやっている。湖畔のレストランはまだ開いていない。
うろつく牛をからかいながら湖畔に出る。ガイドブックにあった様に神秘的な湖。湖面には波ひとつたっていない。
おや?貸しボートがあるぞ。
こりゃ~放って置く手はない。このまま湖だけ見て戻るんじゃ味気ない。
手こぎと足こぎがあるので手こぎを選択。対岸に見える大きな滝までどれくらいかかるのか聞くと、兄ちゃんはしばらく考えてから「30分」と答えた。そんなにかかりそうもなかったが、余裕を持って1時間借りることにした。
値段は・・・よく覚えていないが20スイスフランくらいだったかな?
ボートは楽し
湖に浮かぶのは小さな我々のボートだけ。ボーイスカウトの子供達の声が遠ざかると、オールが水をかく音と、ギーギーと木造の船体が軋む音だけとなる。
浮かび上がってくる魚も餌を探す水鳥もいない。氷河を集めた水は冷たい。波ひとつないエメラルドグリーンの水面をボートは進んで行く。
一生懸命漕いでいるのに、全然進んでいない気がする。広い宇宙にほうり出されてしまったようで、なんだか恐怖すら感じる静けさ。これは転覆でもしたら絶対助からんな。ひっくり返ったら、まず、重たいトレッキングシューズを脱いで・・・などと一瞬考える。
小さな枝が揺れもせずボートの脇を抜けて行く。やはり、ボートはちゃんと漕いだ分だけ進んでいる。
こりゃ~ホントに30分かかるな。少し岸の近くを進もうとして取り舵をきったせいもあるが、徐々にスタミナを消耗して航行速度が落ちてきたのだ。
さらに、あこが全くボートを漕げないこと。これは誤算。1時間ひとりで漕ぎっぱなしかよ!
ちょっと試しに、あこにオールを持たせるが・・・水に落ちたアリみたいな動き。時間の浪費だけでなく、座り位置を代わる際の不安定な状況は、ここでは避けるに越したことはない。
岸まで50mくらいのところを行く。これだと自分が進んでいるのが実感できる。うむ、まあまあの巡航速度じゃん。ボート乗り場からは見えなかった小さな滝や流れ込む小川、それに入江が見える。
出港からちょうど30分で目的地の大きな滝のそばまで到達。お疲れお疲れ。垂直に近い岩壁を流れ落ちる水が、激しい飛沫となって湖面を叩いている。
驚いたことに先客がいる。滝の脇の岩場に一艘のボートがあって、二人の男性が僅かな陸地を足場にして竿を振っている。一応、魚がいるらしい。
あまり近付くと吸い込まれてしまいそうなので、少し遠巻きに豪快な滝を鑑賞する。
停泊時間わずか数分。さあ帰ろう・・・って、こりゃ遠いな~。頑張ろう。
往路と反対側の岸に近い航路をとる。だんだんと滝が遠ざかる。ボート乗り場は、漕ぎ手の背後なので見えない。あまりに遠さに気が滅入るから見えない方がかえって良いかも知れない。
こっちの岸は、まるっきりそそり立つ断崖で岸辺はない。糸の様に細い滝がいくつもある。
日が出てきた。途端に湖面の表情がガラッと変わって、明るいグリーンが南の島の入江のように感じさせる。往路では「神秘的」を通り越して恐いくらいだったのに。
ボート乗り場まであと15分位の所まできた。この辺りまで来ると、他にも何艘かボートが浮かんでいる。いずれもボーイスカウトの子供達だ。
2時の方角、距離50mに同航する1艘がいる。乗員は3名。横並びに少年2人がオールを握っている。相手として不足ない。
全速前進!右舷反航戦用意!あのボート抜くぞ!
こちらに動きに気付いたのか相手も速力を上げる。向こうは漕ぎ手が2人とは言え、所詮は子供。荷物は両者とも1名づつ。
スタミナ勝負は不利だが、技術と気力では負けはしない。オールも折れよと言わんばかりの全速前進。岸の景色が流れて行く。汗が滴り落ちる。こらっ、なに写真撮ってんだよ!手伝え・・・って言っても漕げないんだよな。
激闘5分。距離は広がりもしないが縮まりもしない。想像以上に厳しい戦いだった。子供のくせに妙にオールさばきが上手い。ボーイスカウトではボートを漕ぐ練習をしたりするのだろうか?
闘いは終わった。あとに残ったのは心地良い疲労感と、10個以上の両手のマメだった。
リフト乗り場までもと来た道を戻る。リフトの周囲はアスレチックみたいな物があって、さっきと別のボーイスカウトの集団がワイワイと遊んでいる。
リフトに乗る。またまた別のボーイスカウト達とすれ違う。ユニオンジャックを持っているからイギリスのボーイスカウトなのかな?
今日はボーイスカウトのイベントでもあるのだろう。昼食を調達するために立ち寄ったカンデルシュテークの町はボーイスカウト達で溢れかえっていた。
小さなCOOPに入る。この店内にも7~8人のガールスカウト達がおり、お菓子やらジュースやらを選んでは買い物カゴに入れている。
中学生だと思うのだが、やはり西洋人はやたら発育がいい上にスタイルも抜群。
肩にネッカチーフをした例のいで立ちながら、胸元の開いたシャツと胸の膨らみがやけにエロい・・・じゃなくて眩しい。それに、タトゥーはしてるし、へそ出しあり~の背中出し~ので、セクシーガールスカウトですなあ・・・。
運転しながら、さっきCOOPで買ったクロワッサンやらジュースやらで軽い食事を摂りながらカンデル川に沿って谷を下って行く。
フルティゲンの町で給油。
その時、近くの丘の上に城跡が見えたので行ってみることにする。牧草地のなかの小路を登り、さらに四角い塔の階段をあがる。誰もいない塔の上から谷を見渡す。のどかな谷間の村に石のアーチ橋がアクセントになっている。
ミューレンまでは、まずラウターブルンネンまで行き、そこからラウターブルンネン・ミューレン山岳鉄道(BLM)のケーブルカーでグリュッチュアルプへ。そこで鉄道に乗り換えて2駅。
ところが、乗ろうとしたケーブルカーは工事中。線路は撤去されていて跡形もない。斜面には大きなクレーン車がいて、ゆっくりとアームが動いている。こりゃダメだ。
ミューレンの夕暮れ
ラウターブルンネン駅前のインフォメーションで聞くと、ここからバスに乗ってシュテッフェルベルクまで行き、そこからシルトホルン鉄道のロープウェイを乗り継いでミューレンまで行くのだそうだ。
シュテッフェルベルクには駐車場もあるとのことなので、パンダで移動れば良い。ルートとしては先に壁を登るはずが、先に谷底を行くことになっただけだから大きな違いはないが、ミューレンへのアクセスルートが1個になったために混雑している可能性は考えられる。
その前に、シュタウプバッハの滝に立ち寄る。巻き上げられた水しぶきが降りかかるなか、落差約300mの滝の真下まで行く。滝壺はない。さらに水滴の滴り落ちるトンネルを登ると、滝の裏側からのどかなラウターブルンネンの谷を見渡すことが出来る。
シュテッフェルベルクの駐車場は車で一杯だったが、ロープウェイ乗り場は閑散としている。満員で乗れないという心配はなさそうだ。
ホッとした我々を待ち構えていたのは、乗り場までの長い階段。エスカレータやエレベーターは無し。ここを重たいスーツケースを持ってあがれってか?
一瞬の躊躇を見逃さず若い白人男性がやってきて、ヒョイとスーツケースを持ってくれた(もちろんあこの分だけ)。こっちの人はみんな親切。
体が大きいからパワーがあるだけでなく、手の位置も高いからスーツケースも楽々。こっちは油断すると段差にスーツケースの角をぶつけそうになる。
ロープウェイは生活物資を運ぶ役目もあるようで、パレットに乗った食料品と一緒に乗り込む。急な断崖に沿って動き出すと、すぐに滝が現れる。反対側には夕日に朱く染まる山々。数分で乗り継ぎ駅のギンメルワルト。そこからまたロープウェイに乗って小さな谷をひと跨ぎするとミューレンに到着。
歩いて5分たらずで今日の宿ホテル・ブルメンタルに到着。通りに面した3階建てのシャレー風で、1階がレストランになっている。レセプションで一通りの説明を受けて鍵を受け取る。部屋は3階。
げっ!ここもエレベーターがない。スーツケースを持っての上り下りはしんどそう。でも、静かな村の素朴な宿は、なんだか素敵な時間を過ごせそうな予感。
部屋のテラスから見える山は・・・あれ、アイガーだよね?ユングフラウ地方の西のはずれにあるミューレンからだと、アイガーの黒い北壁をほぼ真横からみる感じ。右隣のメンヒは、目の前のホテルが邪魔して見えず、ユングフラウも目の前に立ちはだかるシュバルツメンヒ(黒い僧侶)と呼ばれる壁の影になっている。
ホテルの裏手のから出ているケーブルカーは終電が午後6時だとガイドブックに書いてあったので、慌てて出掛ける。ケーブルカーで上まで行くと、そこからはアイガー・メンヒ・ユングフラウを見ながらのトレッキングコースがあるとのことだった。
間一髪セーフ!
・・・かと思ったら駅は閉まっていた。駅の時刻表を見ると終電は午後5時。なんだよ~情報違うじゃん。
ホテルに戻るのもなんなのでBLMのミューレン駅を目指して散歩してみる。本当に静かな村だ。ホテルの向かいにCOOPがある他は、小さなスポーツ用品店とパン屋らしき店があるくらい。ホテルの数だけのレストランがあるが客の姿はほとんど見えない。そのホテルもいくつかは休業中らしい。
この村はスキーシーズンが賑わう時期なのだろう。それに今はラウターブルンネンからのアクセスが悪いから、ますます人が少ないのかも知れない。
駅前の小さな広場からはアイガーとメンヒが見える。ユングフラウはシュバルツメンヒ(黒い僧侶)と呼ばれる壁が手前にあって見えない。去年は果たせなかったアイガーとの対面を果たす。うれしい。そして一安心。
BLMのミューレン駅も終電が出たあとで閉まっていた。BLMでグリュッチュアルプまで電車で行って、帰りは線路脇を歩いて帰ろうと思っていたんだけどな。
目論見はまたはずれてしまった。同じ道を往復することになるが、線路に沿って歩きだす。このルートもベルナー3山を見ながら歩けることになっている。ユングフラウを拝むまで今日は終われない。
道は線路のすぐ山側にあって、地形によって線路と同じ高さから架線の高さ位までの起伏はあるもののほぼ真っ平ら。線路の向こうは谷の落ち込みとなっていて、木々の間からアイガーとメンヒが見え隠れしている。
どうせ電車来ないんだから、線路を歩こうか?
・・・などと言った矢先に不意に回送電車が通過。危ない危ない。退避するスペースなかったぞ。
しばらく歩くにつれてシュバルツメンヒが背後に遠ざかり、徐々にユングフラウがその姿を表した。もうそろそろ中間のヴィンターエック駅かと思うと、道は線路から離れて雑木林の中へ。やがて、不意にゲートが現れ行く手を塞いでいる。どういうこっちゃ?
ガイドブックにもここはトレッキングコースとして紹介されているのだが、ゲートは脇から回り込めないように両脇を有刺鉄線で固めている。車輌通行止めって感じではなく、明らかに人間の行き来を制限するものだ。それともウシかな?
いずれにしても、このままでは不完全燃焼。よって、この胸の高さほどあるゲートは突破することにした。
ゲートを越えるとじきに雑木林を抜けて、開けた牧草地のようなところに出る。こんもり高くなったところにはベンチもあり、ベルナー3山が見渡せる場所だった。村からよりアイガーがだいぶ大きく見える。
すぐにヴィンターエック駅が現れた。レストランが2~3軒と農機具の納屋が数棟だけの小さな集落。人の気配は無く、虫や鳥の声も聞こえず、静寂と冷気に支配されている。夕闇も迫って来たのでホテルへと戻ることにした。
ホテルに着いたのは午後8時半頃だった。レストランは午後9時までとのことだったが入れてくれるかな?もっとも、ダメだと言われても他に店なんてないが。入口のおっさんに腕時計を指差しつつ「OK?」と尋ねる。
「Sure!(もちろん)」
大きなジェスチュアで招き入れてくれた。このやりとりだけでおっさん・・・いや、ミスターにすっごく好印象を持った我々。寒い表のテラス席を選ぶとミスターは少し驚いた表情になったが、すぐにフキンにナイフ・フォークをセッティングしてくれた。
ちなみに店内はそれぞれ違った趣の3区画が繋がったようになっている。店は空いていて、初老の男性4人のグループと、ひとりでグラスを傾ける老人がいるだけ。静かで落ち着いた雰囲気。
夜が迫り気温が下がってきたが、服を着込んできたので平気。ビールが来た。運んで来たのは例の陽気なミスター。我々の乾杯が終わるのを待ってミスターが聞く。
「ボナペティは日本語でなんと言うのか?」
「召し上がれ」だと教えてあげると、軽く片膝を折った大袈裟なお辞儀をしながら、
「メスィアガレー」
とやる。実にサービス精神旺盛。今度、日本人が来たら言ってやろうと考えているのかな?しかし、ここミューレンに日本人観光客はどれほど訪れるのか?ミューレンについてからひとりの日本人にも会っていない。それとも、店長としてはこれを期に日本人観光客の誘致に乗り出そうとか考えてるのかも知れない。
「ハーイ、メスィアガレー」
陽気な店長が料理を運んできたサラダとラクレットとステーキにフォークを立てる。皿のカチャカチャいう音が町に響く様に感じるほど静かな夜。時々、店内からオジサン達の笑い声が聞こえてくる。遠くからは「ウィーン・・・」とロープウェイのモーター音。それが止むと、ロープウェイから降りてきたであろう人々の小さなコツコツという靴音がだんだんと近づいてくる。
すっかり暗くなった頃、小さくトランペットの様な音が聞こえてきた。優しく穏やかなその音色はもしかしたらアルペンホルンかも知れない。
音もなく現れたのは1匹の猫。食べ物をねだる訳ではないが足元にまとわりついてくる。白と黒のブチ柄のコイツを我々は「ウッシー」と名付けた。
ほれウッシー、パン喰うか?やっぱりいらないのね。そこへ通りかかった若い西洋人女性がウッシーを見てこう言った。
「Holstein」
人種が違っても考えることは大差ないらしい。そこへ店内から店長がヒョイと顔を出した。ちょうどビールを飲み干したグッドタイミング。では、ビールをもう一杯頼みましょう。やがて、ビールが運ばれてきた。
「チーフ(←店長のつもり)、一緒に写真とりましょう!」
気がつくと時刻は午後10時をまわっていた。ビールのあとに頼んだグラスワインも残りわずか。もう1杯頼もうか?そういえばあれっきり店長も顔を出さない。ちょっと店内へ・・・。
おお、温かいな。店長はおろか店員の姿がみえない。テーブル席で4人の中年男性が酒を飲んでいる。その中の1人が立ち上がったので聞いてみる。
「チーフはどこですか?」
すると男性はちょっと顔を曇らせてこう言った。
「チーフ?私です」
な、な、なんとっ!あのおっさん店長じゃなかったの?
あの気遣いと笑顔にまんまと騙された。では、彼の正体は?午後10時以降、姿が見かけなくなったところからして実はパートか?だったら「私はチーフじゃない」って言えよ!
・・・て言わね~か。それより本物のチーフに「なんだか感じ悪い日本人だ」と思われなかったかな?いきなり店内に入ってきて唐突に「責任者出せ。ワインもう一杯!」みたいに受け取られてたりして。
やがて運ばれてきたワインを傾けつつ「チーフ改めパート」の正体をめぐって大いに盛り上がる我々だった。ミューレンの夜は粛々と更けていく。