メンリッフェン山頂へ
8月17日木曜日。ミューレンの空は晴れ。部屋のテラスに出て顔を左に向ければ、垂直に切り立ったアイガー北壁が見えている。はやる心を抑えてまずは朝食。
ミューレンは朝も静か。窓際のテーブルに腰掛けると、通りを歩く人の足音が時折聞こえるだけ。
隣のテーブルのパンをちぎる音や、ゆで卵の殻をむく音や、コーヒーカップを置く音の方がよく聞こえるほどだ。
ロープウェイで谷底のシュテッフェルベルクまで降り、そこからパンダを運転してラウターブルンネンまで移動。
駅構内のテレビモニターを見る。この時間、ユングフラウヨッホだけは白い雲の中だが、それ以外は概ね晴れ。目指すメンリッフェンも快晴で、アイガーも姿を現しているようだ。
素晴らしい!
ホームは山へと向かう人たちで賑っている。カタカタとラックレールを響かせるヴェンゲンアルプ鉄道(WAB)に乗ってウェンゲンへ。
ラウターブルンネンの谷を挟んでミューレンの向かいにある村ヴェンゲンに到着。標高は1,275mなのでミューレンの方が400mほど高い。
太陽をいっぱいに受ける東斜面にあるせいか、駅に降り立つと暑い。ヴェンゲンもミューレン同様に自動車は走っていないが、ミューレンよりも店の数が多く、賑やかな感じ。
WABの駅から歩いてすぐのところにあるロープウェイ乗り場に到着。メンリッフェンを目指す。
去年は雲の中へ突入していったロープウェイ。窓は曇っていたし、乗客もほとんどいなかった。
しかし、今回は青空へ向かっている。ロープウェイの中は燦々と降り注ぐ太陽の光に包まれている。
5分足らずでメンリッフェン(2,227m)に到着。ロープウェイ乗り場をでると、思わず走り出したくなるようなパノラマがひろがっていた。
目の前には大きなアイガーの北壁。ここ数日は天気が悪かったせいなのか、雪が積もって白く見えている部分が多い。
南から流れてくる雲は若干多めで、少し低くなっているユングフラウヨッホからメンヒかけては雲がせりだして隠れている。その右隣のユングフラウは真っ白な頂きが見え隠れしている。
尾根の途中にある小さな尖がりがチュッケン(2,521m)。これを巻くようにトレッキングコースがクライネシャイデックまで続いている。
ロープウェイ乗り場の周辺は尾根というには比較的平坦で、山岳ホテルやレストランがあり、のんびりと牛たちが草を食んでいる。
アイガーに背を向けると、すぐのところにメンリッフェンの本当の山頂(2,343m)。なだかな道を500mも歩けばそこまで行けそうだ。
ロープウェイであがってきた西側の谷は急な断崖。直下にはヴィンゲンの村。強い風が吹き上げてくる。
そこからラウターブルンネンの深いU字谷を挟んた向こう側には、崖っぷちにへばりつくようにして小さなミューレンの村が見えている。
尾根を挟んだ反対側のグリンデルワルトの谷は、なだらかな斜面で日の光がいっぱいにあたっている。
チーズ小屋や納屋のようなものが点在していて、それらを結ぶように幾つもの細いつづら折りの道が尾根と谷とを結んでいるのが見える。
湿度が低いのでサラッとしているが日差しは結構強く体感温度は高い。「ここぞ」とばかりに持ってきた半袖シャツと膝までの短パンに着替える。
日本人は日焼け防止のためか、意外と着込んだ人が多い。逆に西洋人は妙に薄着でタンクトップ1枚だったりする。我々の服装くらいでちょうど平均くらいかもしれない。ふくらはぎを撫でる風が気持ちよい。
ロープウェイ乗り場から15分ほどでメンリッフェン山頂に到着。時刻はちょうどお昼の12時。
狭い山頂からの展望は360度。ユングフラウ地方の峰々の全部がすべてが視界のなか。ロープウェイ乗り場からは影になっていたインターラーケンのまちとトゥーン湖も見えている。去年は一面真っ白な霧で何にも見えんかったもんな~。感激もひとしお。
クライネシャイデックまで
メンリッフェン山頂からの景色をしばらく堪能したら、もと来た道を戻ってクライネシャイデック方向に歩き出す。
正面にはアイガーの黒い北壁。メンヒとユングフラウは、相変わらず雲の間から時々顔を除かせるだけだが、上空は快晴。
絶好のハイキング日和・・・というより暑いくらいの日差し。牧草地の緑のじゅうたんさえまぶしく感じる。
ランチタイムなのでメンリッフェンのレストランの周りは賑わっているが、そこを過ぎると人の姿はぐんと減る。
道は老若男女も体脂肪率もまったく問わないゆるやかな下り坂。日本から持ってきたストックはまるで活躍の場がない。
ここはスイス随一のトレッキングコースということだったので、バカンスシーズンで天気も良いなれば数珠つなぎみたいな状況も想像していたのだが、全然そんなことはなくて、牛をからかったり写真を撮ったりしながらマイペースで歩ける。
相変わらずの青空で、風は爽やか。眺めはいい。
花畑・・・とまではいかないものの、コースの周囲にはたくさんの花が咲いていて、目を愉しませてくれる。
チュッケンのあたりではマーモットに遭遇。
ピーッと鋭い鳴き声にそちらを見ると、2匹のマーモットが競争するようにして斜面を駆け上がって行った。
チュッケンを回り込むと平坦なテラス状のところに出る。いくつか並んだベンチや適当な石の上に座って休憩したりランチを食べたりする人達がの姿が見える。
我々もここで小休止。
大きく近づいてきたアイガー。グリンデルワルトのまちからクライネシャイデックまでのなだらかな牧草地をのんびりと眺める。
そこをゆっくりと下っていくヴェンゲンアルプ鉄道(WAB)の黄色と緑の車両。繰り返し汽笛がこだまする。目を凝らすと、牛の群れが列車の行く手を阻んでいた。
コースを横切る小川をまたいでラウバーホルンの山裾を巻くように進むと、1軒のレストランが現れる。レストランにくっついて小さな展望台があるので行ってみる。
・・・が、階段を数段登ったあたりから突如ものすごい風。手すりにしがみつきながら一歩一歩進まないと吹き飛ばされそう。息もできないくらい。コンタクトも危険。そもそも木製のこの展望台自体が大丈夫なのかちょっと心配になる。
ここはラウターブルンネンの谷からグリンデルワルトの谷への風の通り道になっているらしい。展望台の突端まで行くと、直下にクライネシャイデック駅やレストランがあった。
正午にメンリッフェン山頂を出てから、ゆっくりゆっくり歩いて2時間半。クライネシャイデックに到着。
駅の周辺はユングフラウヨッホへと向かう人達で混雑している様なので、手前の少し高い所にあるベルクレストランに立ち寄る。
ここは少し風が強いせいか案外空いている。日当たりのよいテラスを選んで座ると、風がちょうど心地良い。
雲がとれたらユングフラウヨッホまで行ってみようと考えていたが、メンヒからユングフラウにかけては相変わらず南側から押し寄せる雲のせいでよく見えない。これでは上にあがっても真っ白の世界だろう。
でも、雲の流れは早いし、そのうちに晴れるかも知れない。
その時を待ちつつ、何はともあれ運動後の渇いた身体には、やっぱりビールですな。これは地元インターラーケンのビール会社のものらしい。それと、この店のお勧めのスパイシーポテト。ほい乾杯。
ビールもスパイシーポテトも空になったが、どうやら雲もとれそうもないので予定を変更。
ユングフラウ鉄道(JB)でユングフラウヨッホ方面へひとつ目の駅アイガーグレッチャーまで行き、そこからグリンデルワルトへ向かう途中にあるWABのアルピグレンまで、アイガー北壁の直下を歩くことにする。ガイドブックによると所要時間は約2時間ほど。
アイガー直下
JBの車内。あこはビール1杯で顔を真っ赤にしていて、陽気な車掌さんに「日焼け止めは塗ったかい?」とからかわれている。いやいや、彼女は「ソー・マッチ・ビア」なんですよ。
そんな束の間のやり取りのうちに電車はアイガーグレッチャー駅に到着。北壁にへばりつくように建つ駅は日陰になっていてちょっと寒いくらい。
とりあえず上着を羽織ったら、アピグレンへと向かう前に駅のすぐそばに迫っているアイガー氷河の舌端を見に行くことにする。駅から少し斜面を下って、岩と氷の荒涼とした景色の中を歩く。
「ザァーッ」と聞こえてくるのは氷河の舌端から流れ落ちる水の音。カウベルの音のする方を見ると牛とヤギがいる。しかし、だんだんと風が強くなってきて、それらの音もかき消されるようになる。
もう少し氷河に近づくと、不意にもの凄い風。まっすぐ歩くことはおろか、立っていられないほど。しばらく身をかがめ、風が弱まるのを待つ。岩壁の上の方をみると雲が激しく動いている。
一旦、アイガーグレッチャー駅まで戻ってアルピグレンを目指す。ホームに出ると6~7人の日本人グループが不安そうな表情でベンチの周りに集まっているのに遭遇。
背伸びして覗き込むと、ベンチに座った70歳くらいのおばあさんが額のあたりから出血しているらしく、添乗員さんが持つタオルは血で真っ赤。逆におばあさんは顔面蒼白。
うわっ!大丈夫ですか?
テーピングなら持ってますけど使います?
幸い気はしっかりしているようだが、こんなスイスの山の上で怪我してしまうなんて気の毒に。さっきの突風で転んでしまったのだろうか?
アルピグレンに向けて歩きだすと、コースはすぐに垂直に切り立った絶壁のすぐ脇を通る。
さっきまで遠くから眺めていたアイガー北壁が、いま手で触れるところにあるのは、なんだか不思議な感じだ。
そこを抜けると視界が開けて、はるか前方にヴェッターホルン、その下には家々が点在するグリンデルワルトの町が見えてくる。
左手に連なる緩やかな緑の峰々は、先ほど歩いたメンリッフェン、チュッケン、ラウバーホルン。さらに左手後方にはクライネシャイデックも見えてきた。
コース周辺は、岩盤の隙間にかろうじて根を張っている痩せた感じの牧草地。あそこに5頭、こちらに3頭といった具合に牛たちが小さな群れを作っている。
道は細かい岩くずのザレ場だが、綺麗に整備されていて快調に歩ける。
だんだんとヴェッターホルンが近づいて来た。途中に北壁アタックのルートを示す看板があったので、覆いかぶさるように迫る絶壁に目を凝らして人影を探す。
人の姿はなかったが、絶壁の中ほどに蒲鉾型をした窓をふたつ発見。きっと、JBのアイガーバント駅だろう。スイス人はとんでもないところに駅を作ったものだと改めて感心する。
やがて、北壁から流れ落ちる滝に出会う。スイスの川の水は家畜の糞などが混ざっている可能性があるとのことだが、顔くらい洗っても良かろう。雪融け水なので冷たい。この冷たさでアイガーの直下にいることを再確認する。
滝を過ぎると、コースは方向転換してアルピグレンへの長いつづら折りになる。これが結構キツイ。歩けど歩けど、眼下に見えているWABの線路はなかなか近付いてこない。膝が痛くなってきた。
今日はここまで、緩やかながらもずっと下り坂だったので、知らずのうちに膝に負担がかかっていたのだろう。これ以上、膝を傷めないようにゆっくりゆっくりと下っていく。
このつづら折に苦戦しているのは我々だけではなかった。スローペースの我々でも、休み休み下っていくグループを幾つも追い抜くことなる。
なかには、後ろ向きにバックで下山して行く日本人中高年女性までいる。
ああ、分かる分かる。あれは膝の痛みだけじゃ無くて、太ももやふくらはぎに筋肉痛を抱えている動きだな。でも、あのペースじゃ駅に着くのはいつになるのやら・・・。
終電は何時だろう?
膝がガクガクになりつつも、ほぼ予定通りアイガーグレッチャーから2時間ちょっとでアルピグレン駅に到着。改めて地図を見ると、アルピグレン駅は標高1616m。アイガーグレッチャー駅が2320mだったから標高差は約700mある。これを2時間で下るとなれば、そう楽ではないのは確かだ。
いや~、後半はキツかったが充実の一日だった。さあ、ホテルに帰ろう。
時刻は午後6時。駅周辺はシーンと静まりかえっていた。窓口はすでに閉まっている。まさか、もう電車がないなんてことないだろうな?
駅舎の時刻表を見ると、上りも下りもあと終電を残すのみだった。グリンデルワルト行きの終電まであと20分ほど。クライネシャイデック行きの終電まではまだ30分もある。やがて、山を降りてきた人達が徐々に増えて、駅は少し賑やかになった。
ミューレンまで戻る我々は、グリンデルワルト経由でもクライネシャイデック経由でも良いのだが、どちらにするか悩む。
いかんせん終電。その先の接続がなかったらアウトだ。
グリンデルワルトからの接続が無い可能性は低そうだが、ラウターブルンネンまでは乗換えが2回で、しかも遠回りな感じ。クライネシャイデック経由なら乗り換えは1回で、距離的にも近そうだ。海外ビギナーとしては後者を選択。
しかし、グリンデルワルト行きの電車が出ていくと、駅のホームは我々2人だけになってしまった。驚いたことに我々を除く全員がグリンデルワルト行きに乗り込んでいったのだ。
う~む・・・不安。
これは、グリンデルワルト滞在の人が圧倒的に多いから?それともクライネシャイデックから先の接続が無いんだとしたらどうしよう?
やがて、クライネシャイデック行きが駅に入ってきた。車内は満席・・・ってことは、接続があるに違いない。女性の車掌さんに目的地はラウターブルンネンだと告げると、手際よく手書きの切符を渡してくれた。これでひと安心。
ウトウトとするうちに電車はクライネシャイデックに到着。向かいのホームの電車に乗り換え、またウトウトするうちにラウターブルンネンに到着。
駐車場で待つパンダに乗り込み、ディナータイムのラウターブルンネンの村を抜け、薄暗い谷底を走ってシュテッフェルベルグに移動。そこからロープウェイでミューレンへ。干し草の載った大きな台車が便乗して狭くなったゴンドラからはシュバルツメンヒが夕日に輝く姿が見えた。
夕食は今日もブルメンタルホテルのレストランにした。果たして、チーフ改めパートのおっさんの正体は?
今日は屋内。道路に沿って細長い店内の奥の窓際のテーブルに案内される。古い調度品が暗い照明に微かに照らされて、山中の小さなホテルと思えない良い雰囲気。壁の飾り棚には大小の銀のミルクポットが鈍い光りを放って並んでいる。
チーフはいなかった。
う~む・・・やはりパートだっか。今夜の担当は黒い髪にモジャモジャの口ヒゲを蓄えた中年男性。我々は彼を「マリオ」と呼ぶことにした(←単純)。実は彼は昨日も居た。
客は他に2組だけ。相変わらず静かなミューレンの夜。充実の一日を振り返りつつ、ワインを傾ける。今日でアルプスとはお別れ。明日はチューリヒに移動する。