ベルナー・オーバーラントへ
夜はまだ明けておらず窓の外は暗い。そんな折り、テレビ画面を見ながら腕組みしている我々。
スイスの名だたる山や展望台の無人カメラからのライブ映像が順繰りに流れていることは昨日の時点で発見していた。しかしこの時間、まだ陽は昇っておらず、どのカメラ映像もほぼ真っ暗状態。天気なんか判るはずがない。
かといって、天気がはっきりしてから行動開始したのでは、比較的近いモンブラン以外はジュネーブからは距離が遠すぎて、肝心のトレッキングに時間が割けなくなってしまう。
まあ、いつまで悩んでいてもしかたがない。まだ明日もあることだし、ベルナーオーバーラントを目指して出発することにした。現在、7月7日の午前5時半過ぎ。順調にいけば、インターラーケンを経て、アイガー・メンヒ・ユングフラウ三山の麓のまちラウターブルンネンに着くのは午前10時頃だろう。
高速に入ってしばらくすると夜が明けてきた。天候はくもりで曇は低い。気温が上昇して晴れてくれることを祈りながらハンドルを握る。モントルーの手前のジャンクションで北に針路をとり、レマン湖畔から離れていく。高速道路経由だと道のりは少し遠回り。ベルンまでは北上し、そこからインターラーケンへは南下する感じになるが、たぶん最短の山越えルートよりは時間的に速いだろう。
グリュイエール湖を見下ろすパーキングで給油。そして我々も軽い朝食を売店で買い栄養補給。朝もやの残るグリュイエール湖は、まだ眠っているようだ。たまに車が通る以外はシーンとしていている。
山を下り、やがてベルンを通過。しばらくはアーレ川に沿った広く平坦な谷間を走る。たまに小さな街を通過するが、森、牧草地、ぶどう畑といった感じの単調ながらスイスらしくもある景色が続く。進行方向の谷と雲の間には青空が見える。さらには白く輝く山もちらちら見えている。この分なら大丈夫か?
高速道路を下りると、トゥーン湖と山に挟まれた軽い山道となる。近くを線路が走っていてて、道沿いに小さな駅があったりする。だんだん雲が低く厚くなってきた。いや、雲が低くなっているんじゃなくて、こっちが高くなってきているのか・・・。
まあ、どっちでもいいが今さら後戻りは出来ないことは確か。インターラーケンの手前で南に進路変更し、「ベルン州の高地」ベルナーオーバーラントへ。
「ラウターブルンネン・グリンデルワルト」方面を指す看板に従って行くと、じきに登山列車の線路にでる。最初の駅ヴィルタースヴィルで車を停めて現在地確認&トイレ。そしてホームに出てみる。山からゆっくりと列車が降りてきた。こっちの駅はホームが低いので、距離感だとか、車輪の側から見上げるような感じがイイ。
日本人中高年7~8人のグループがいる。駅の周囲に田舎まちがひろがっているので、昨晩はこのあたりに泊まっていたのだろう。皆さん大きなスーツケースを転がし、服装もバッチリ山用。ツアーではないところから見て、きっと熟練の人達なのだろうと思い、声をかけてみる。
もし偶然にあとで山の上で会ったら何かいいネタを教えてくれるかも知れない・・・などといやらしい打算があったわけでもないこともない。
氷河が削り取った深い谷の底を進んでいく。曇りでただでさえ光が乏しい上に空が狭いので、もう午前9時過ぎているのに、夜明け間もない頃のような雰囲気。グリンデルワルト方面との分岐を過ぎてさらに10kmほど進むと、森の向こうにラウターブルンネンの街が見えてきた。
ラウターブルンネン
集落の手前で左に下ったところが駐車場。4階建て位のがっしりとした立派なコンクリート造り。谷川岳のロープウェイ乗り場にある駐車場を思い出した。
景観に配慮してか、川と崖と森に囲まれた場所にある。まだスペースは3割ほどしか埋まっていない。朝早く起きた甲斐はあった。あとは天気だな。
車の外は寒かった。ユニクロのヒートテックを着てシャツも2枚重ねにして、そのうえにウィンドブレーカーを羽織り、昨日イヴェルドンで買ったソックスを履く。
そして重たい思いをして持ってきたトレッキングシューズもようやく出番が訪れた。
軽く屈伸運動をして出発。
駐車場は上の方のフロアで鉄道のラウターブルンネン駅と通路で結ばれている。切符売場にはモニターがあって、ベルナーオーバーラント各地点のライブ映像が映っている。
ヨーロッパ鉄道最高地点ユングフラウヨッホは霧で真っ白。ちらつく雪も見える。西の方向にあるシルトホルンも真っ白。比較的近いメンリッフェンだけが明るくて、雲の切れ間から太陽がさしている。
「グーテンモルゲン」
ここはドイツ語圏なので、あいさつもドイツ語にしてみる。窓口の綺麗な女性に「どこの天気が良さそうか?」を聞いてみるが、彼女は軽く肩をすくめて答えた。
「どこも一緒よ」
とりあえずメンリッフェンまでの片道切符を買い、ラウターブルンネンを散歩してみる。
駅を出て左側、谷の奥の方向がメインストリート。通りを歩き始めてまず目に飛び込んでくるのが、右前方にあるシュタウフバッハの滝。
ラウターブルンネンは氷河によって造りだされた深い谷底の小さな集落で、滝はその垂直な断崖から落ちている。その落差はなんと300m。あまりに高すぎて滝壺はないらしい。
空はくもり。雲が山から流れ込んでくる。天気が悪いのは残念だが、この幻想的な感じは悪くない。それに雲は、あの谷の縁まで氷河が埋め尽くしていたころの様子を思い浮かべるのを助けてくれる。
ヴェンゲン方面へと続く左側の斜面には線路が斜めに走っていて、そこを登山鉄道がゆっくりと降りてくる。黄色いボディが周囲の緑によく似合っている。
道の両側にはアルペン用品店やカフェやホテルなど、どれも三角屋根の建物が並んでいる。
やったね!これこそイメージどおりのスイスの景色。
少し歩いた分岐で左に折れて、川沿いの教会のところまで降りてみる。そこから斜面を登る細い遊歩道を経て、駅にもどる。散歩していた僅か30分足らずの間に、メンリッフェンの映像は真っ白になっていた。まぁ、山の天気は変わりやすいから、運が良ければまた晴れるだろう。
可愛いらしい登山鉄道は4両編成。最後尾の4両は団体専用で、インターラーケン方面からの乗り継ぎの日本人ツアー客で満員になっている。我々の乗る前寄り3両も、こんな天候ながら8割方埋まっている。
走りだすと、じきに線路は大きくカーブして、ラウターブルンネンの村を左手にしてグイグイ坂を昇っていく。後方にあった滝がみえなくなると、あとは森とトンネルの連続となる。
乗り換えのヴェンゲン駅に到着。曇り空のした、かすかに霧雨が降っている。この駅で降りたのは乗客のなかの2割ほど。あとの乗客はそのままクライネシャイデックまで行くらしい。少し歩いたところにあるロープウェイ乗り場へ向う。
小さなヴェンゲンの村は意外に賑わっていた。みやげ物店や登山用品の店、レストランなどが並んでいて、お年寄りから子供までが高原のリゾートを楽しんでいる姿が見える。
すぐにロープウェイ乗り場に到着。これに乗れば一気に雲を突き抜ける・・・かどうかは分からないが、着いたところが標高2,225mのメンリッフェン。晴れていればアイガーが間近に見えるはずだ。
五里霧中
メンリッフェンは白い世界だった。完全に雲のなかに入ってしまい何も見えない。ヴェンゲンの谷方向からやってくる霧が、我々の周囲をゆっくりと流れていくのが見えるだけ。
尾根を通ってクライネシャイデックへと向かう道も、ほんの100mほど先から霧のなかに消えている。そのすぐ先にあるはずのグリンデルワルト方面へと降りるゴンドラの乗り場も見えない。
ここからクライネシャイデックへのルートは、アイガー・メンヒ・ユングフラウの3山を見ながらのトレッキングコースで、晴れていれば最高のルートなのだが、眺望は臨むべくもない。
歩いている人影がないわけではないが、彼等がクライネシャイデックからやってきたのか、それとも途中で引き返して来た人なのかは判断できない。
とりあえず、クライネシャイデックへ向けて歩き出してみる。すぐにグリンデルワルトへのゴンドラ乗り場が現れた。そこを過ぎ、霧の中の道を行く。
「寒い」
あこが言う。雨こそ降っていないものの、雲の中は全身しっとりと濡れる感じで、じわじわ体温が奪われる寒さ。クライネシャイデックまでは2時間ほどの行程。途中で本格的な雨となったとしても、その装備は持ち合わせていない。やむなく引き返すことにした。
ゴンドラでグリンデルワルトに降りることにした。正確にはグリンデルワルト・グルント駅に向かう。ゴンドラは、スキー場でよく見掛ける4人乗りのアレ。自ずと駅という構造ではなく、これもまるっきりスキー場のそれに近い。
乗っている時間はなんと40分!
晴れていれば素晴らしいパノラマがひろがっているのだろうが、とりあえずは雲のなかを行くことになる。
行程の半分以上は広大な放牧地のなかを通っている。そこに家畜小屋や農具倉庫やチーズ小屋らしい小さな建物が点在している。
時々、好き勝手に草を食んでいる牛やヤギの群れの上を通過。結構遠くからでも風に乗ってカランコロンとカウベルの音が聞こえてきてなんだが楽しい。
高度が下がるにつれて雲はうすくなり、徐々に視野が開けてくる。雲の切れ間からグリンデルワルトのまちが見えてきた。緑色の草木も、茶色い屋根もしっとりと濡れて、街全体が寒空の下、体を固くして未だ目覚めずにいるようだ。
寒いのは我々も一緒。空調設備のないゴンドラ内に40分もいたせいですっかり体が冷え切ってしまった。
グルント駅の待合所の自販機でコーヒーとスープを買い、しばし暖をとる。誰も山から降りてこないし、山を目指して駅にくるひともいない。
小雨の降るなか鉄道のグルント駅に移動する。時刻は午後1時前。ゴンドラのグルント駅とあいだは大きな駐車場をかねた空き地になっているが、止まっている車は10台にも満たない。他に人の姿もなくシーンとしていて、途中にある小川の音だけが聞こえる。
幅が狭いので「小川」と呼んではみたが、流れは結構激しい。水の色はクリームソーダをかき混ぜたような淡い緑色をしている。
線路は、ここグルント駅でスイッチバックしてクライネシャイデック方向へと続いている。その車中、不覚にも爆睡してしまった私。早起きの疲れと、車内の暖かさのせいだろう。ハッと目を覚ますと、列車はクライネシャイデック駅に着いていた。
やっぱりだめか~。
周囲はミルクのように真っ白な雲に完全に包まれている。雨も結構降っている。小さな駅舎は雨宿りする人達で一杯。メンリッフェンからここを目指して歩いていたら、今頃大変だったろう。
「それでも行きます!」
女性添乗員さんの元気な声が聞こえる。15人ほどの日本人ツアーグループが、この天気のなかユングフラウヨッホまで登るらしい。
テレビモニターには、激しく雪が舞っている様子が映っている。恐らくツアーコースに(もちろん料金にも)含まれていて、天候に関係なく行かざるを得ないのだろう。それに「雪だろうが嵐だろうが行きたい」という人は必ずいる。
そんな制約のない我々は山を下りることにした。何も見えない所への往復で2時間はかけたくないし、実は料金がとても高いというのも理由として大きい。
ラウターブルンネン行きの列車に乗る。
車窓からは牧草地と、線路近くにある家々が霧の向こうに見えるだけで、憧れのアイガー・メンヒ・ユングフラウは見えない。線路に沿って遊歩道があり、雨の中を歩いている人が結構いる。沿道に家や駅があるから多少天気が悪くても安心なのだろう。メンリッフェン~クライネシャイデック~ラウターブルンネンのルートは、プランニングの際、トレッキングコースの最有力候補だったのだ。残念だがしかたがない。