蘇州へ
中国は2回目となる。そして今回の行き先は無錫・蘇州・上海。題して「無錫旅情by尾形大作ルート」である。相棒はまたしてもT朗。彼とは3度目の海外旅行となる。しかし、過去の2回と異なる点は以下のふたつ。
・広州桂林と台湾は2泊3日の強行日程だったが今回は3泊4日で多少長いこと
・ツアーであること(※厳密には広州・桂林はツアーだったが2人だけだった)
なお、あらかじめ断っておくが我々はホモではない。かくして正月休みが終わったばかりの2000年1月8日、我々を含めた総勢18名が成田空港出発ロビーに集合した。顔ぶれは以下の通り。
・T朗と私
・中年夫婦×2組
・保母さんチーム10名(20代~中高年まで)
・男性ソロツアラー×2名
社員旅行を除くと、私にとって初めての団体旅行なのでよく分からないが、恐らく男女比は平均的なところだろう。保母さんチームがいる分、平均年齢は若干低めかもしれない。
冬の寒さに包まれた夕暮れの上海空港で18人を待ちうけていたのは、現地添乗員の「寧々」さん。21歳だという彼女。なかなかカワイイ娘さんである。
「ワタシ新入社員れすね。よろしくおねがいします」
一般に中国人は濁音の発音が苦手らしく、それは彼女の場合も例外ではない。話し方は舌足らずな感じ。加えて日本語をトチった時のはにかんだ表情が実に可愛く見える。
上海空港から蘇州のホテルまではバスでの移動。ターミナルを出てバスへと向かう一行。こういう場合、普段なら1番後ろを歩きたいタイプの私。しかし、気が付くとT朗と私が先頭となっている。我々ふたりが荷物が少なく、加えて周囲より多少若いということもあって歩行スピードが速いせいもあるのだろう。それと、不慣れな地での集団の移動において、自然と1番背の高い人間(つまりT朗)の後ろに付いて群れを形成してしまったに違いない。人間もまだまだ動物的な習性を残してしている。
そのまんまの流れで、バスの座席は我々2人が入口側の1番前となる。眺めも良いしラッキー!しかも、通路を挟んで隣には寧々さんもいる。コレは仲良くなるチャンス!
しかし、バスが走り出すとこれがラッキーではないことが判明した。
「寒い・・・」
入口ドアの隙間から冷たい風が流れ込んでくる。それだけで済まない。
「みなさんコメナサイ。このパスはエアコンが故障してしまいました」
暖房が効かないバスは夜霧のたち込める郊外の道を走っていく。「渇いた大地」ってのが中国のイメージだが、江南のこの地は比較的に湿潤だということを車窓を流れていくモヤが物語っている。そのせいで曇るフロントガラスを、ときどき運転手が手で拭いている。なにしろエアコンが壊れているのだからデフォッガが効く訳がない。しかし、曇りをぬぐえるのはせいぜい手が届く50cm四方くらい。やはり、かなり見えにくいのだろう。走行中ヘッドライトは常に上向きのまま。対向車がパッシングしたりクラクションを鳴らしたりするが全くお構いなし。我が強いというか、利己主義的というか・・・。
このドライバーは、我々のような日本人の(少なくとも私が)思い描いく中国人像そのままだ。しかし、寧々も負けてはいない。日本の普通の観光バスなら、サンバイザーやその周辺に表から見える様に貼っておくツアー名などが書かれた紙。コレを結露したフロントガラスにペタッと貼り付けたのである。可愛い顔して、なんてガサツな…。
中国人民のたくましさを実感した第1日目であった。
寒山寺
翌1月9日。大きな円卓2つが用意されている朝食の会場。メンバーの構成上、保母さんチームとその他チームに分かれて座ることとなる。このパターンは旅の終わりまで変わることはなかった。
朝食を済ませたらすぐにバスでの移動となる。相変わらず車内の空調は効かない。もっとも、一晩で修理できるはずもないが。
蘇州は春秋戦国時代の「呉」の都があった都市。この時代に、すでに絹織物で栄華を誇る大都市だったという。
春秋戦国時代に「呉」が「越」に滅ぼされたのは紀元前473年のことだから、このまちの歴史は想像もつかないほど古いものだ。
呉と言うと三国志の呉がすぐに思いつくが、これはずっと時代をくだった西暦221年。倭国の王「卑弥呼」が魏の国に使者を送ったのが西暦239年だから、どっちにしても、やはり中国の歴史はとてつもなく長い。
そんなことを考えているうちに、バスは寒山寺に到着。
唐の時代に、この寺で「寒山」と「拾得」が修行していたことがその名の由来だとのこと。のちに張継が詠んだ「楓橋夜泊」によって寒山寺は、日本を含め、広く世に知られることとなる。
突如あらわた黒装束の集団は、朝のお勤めへと向かう僧侶の列だった。
<楓橋夜泊>
月落ち烏鳴いて霜天に満つ
江楓漁火愁眠に対す
姑蘇城外の寒山寺
夜半の鐘声客船に到る 張継
虎丘
春秋時代の呉王「闔閭」は紀元前496年に死亡。その23年後に呉は滅んでしまう。その闔閭の墓が、ここ虎丘だ。
ここには「闔閭を埋葬して3日後に白い虎が現れた」との言い伝えが残っているそうだ。丘全体が虎の座った姿を模しているとのこと。山頂にある塔が、虎の尻尾ということになる。
雨こそやんだものの肌寒い。白壁のある石畳の沿道と、木々に包まれた丘へ続く階段は、日本の山寺の雰囲気にも似ている。
虎丘そのものが闔閭の墓だが、その頂きにある石造りの塔は春秋時代から遥かに時代をくだった宋時代の961年に建てられたもので高さは47m。写真では分かりにくいが、北の方角に約15度傾いている。
400程年前から地盤沈下で徐々に傾いていったが、近代に入り地盤修復工事を行ない傾斜は止まったそうだ。この塔の地下には財宝が埋められているとの話である。但し、掘り起こそうとすると、塔が崩れ落ちて来る仕掛けだとか。
ホントかな?ちょっと、出来すぎた話のような気がするが・・・。
もときた道と違う坂を降りてバスの待つ広場へと向かう。
虎丘を麓まで降り切るとそこには細い運河。よどんだ感じはないが、曇った空のせいもあって水面は鉛色。岸から垂直に組まれた石垣は、もう何百年ものあいだ水にぬれて黒く錆びたような色をしている。
せり上がる石垣からそのまま民家の壁となる。30cmくらいありそうな厚い石造りの壁で、表面に塗られた漆喰が良い感じに汚れて趣がある。
この運河に架かる小さな橋を渡って集落のなかへ。すると沿道の小さな店から人々が飛び出してきた。手に手にスカーフやハンカチなどの絹織物、ネックレスやイヤリングなどのアクセサリーなど持ち、
「コレ、3個で千円!シェンエン!」
と叫びながら待ち構えている。スゴイ迫力・・・というより鬼気迫る感じでちょっと怖い。手に持ったそれらを我々の顔の前に突き出して行く手を遮る彼ら。こんな強烈な売り込みじゃあ、本当に欲しいものがあっても手が出ないだろう。そんな彼らをかき分けるようにして進む。ようやく通り抜けても、しつこく後ろから叫び声がする。
「4個でシェンエンッよ!」
通り過ぎると安くなるってどうなの?だったら最初から安くしなさいよ。
拙政園
続いてバスが向かった先は、1509年に明の官僚「王献臣」によって造営された面積約5万㎡の庭園「拙政園」。
太平天国の忠王府の一部でもあったこの庭園は、中国の重点保護遺跡に指定されている。
園内は大きく東園、中園、西園に分かれていて、それぞれ大小の多数の蓮池がある。周囲のあずま屋や回廊、橋、木々、複雑な形をした石などが水面に影を落としている。
この庭園、とにかく広い。その面積の大部分は水面・・・つまり池なのだ。
植木や草木が多く、水や石との調和を意識した日本の庭園とはだいぶ趣が異なる。
これは良い悪いではなく、文化や美的感覚の違いということだろう。
空調の無いバスの中で冷え切った体のまま、霧雨交じりの池の脇に立ち、水面を渡って来る冷たい風を受けているのは肉体的には結構ツライ。
蘇州の街
江蘇省の南東部にある蘇州は人口約420万人の都市。漢民族の大部分の街がそうであるようにここも城郭都市で、周囲はほぼ正方形に掘られた「外城河」と呼ばれる運河に囲まれている。その内側の街の中を細い運河が縦横に走っている。
蘇州の街の周囲を取り囲む外城河を望むレストランで昼食となる。
ビールと酒をオーダーし、軽く一杯。お互いの顔が見える円卓で、中心のテーブルを回して食事をよそったり、酒を注いだり注がれたり・・・。中華料理は知らぬ同士がコミュニケーションをとる上では悪くない。その点ではツアー向きの食事と言えるかも知れない。
ほろ酔い気分でレストランに併設された小さなみやげ物屋を冷やかしたあと、外城河のほとりへと降りてみる。
雨上がりのひんやりとした空気に包まれる。東洋のベネチアとも呼ばれる蘇州は水路や運河が四通八達していて、街の外周を取り囲むのがこの外城河。昔はこれに沿って城壁もあったと思われるが、街の近代化のさまたげになるので取り払われたのだろう。
今は城壁に替わって周回道路が街を取り囲んでいる。バスの出発時間までの時間を使ってこの周回道路に沿って散歩する。
コンクリートで舗装された路面を「コーッ」と高い音を立てて車が通りすぎて行く。
数分歩くと現れた立派な建物は蘇州駅。広い道路の向うに、タクシーを中心に数えるほどしか車が停まっていない駅前広場が見える。
「ひとり100円つづ出して、添乗員さん(=寧々)にチップをあげよう」
昼食後、ベテラン保母さんチームから提案があった。物価は日本の1/20、所得は1/30とも言われる中国。
「1800円は多過ぎでは?」
私の声は女性陣にかき消され、この後、18枚の100円硬貨が寧々の手に渡ることとなる。
バスで無錫へと移動。無錫市は太湖のほとりに栄えた都市で、人口は約430万人。ここで現地ガイドとして女性添乗員の江さんが加わる。寧々が新入社員だから、そのフォローなのだろうか?
周囲は徐々に暗くなってきた。途中、無錫郊外のレストランでの夕食となる。これまで食事の際には近くのテーブルに座っていた寧々とドライバーであったが、気付くとドライバーはおらず、寧々は携帯で何やら盛んに電話をしている。やがて、寧々から驚きの報告があった。
「皆サン、ワタシ達のパスは、故障て動けなくなった別のパスを迎えに行きました。そこて待っている人たちを乗せてホテルに送ってから、ここへ戻って来ます」
さすがは中国。何が起こるかわからない。夜の原野で立ち往生しているバスのツアー客の事を思えば、エアコンが故障して寒いくらいは可愛いモノか。
さほど待つことなく我々のバスは戻ってきた。ホテルへと向かう。
寧々「無錫はマッサージも盛んれすネ。行かれる方は、ホテルに着いたらお聞きします」
私「俺、行ってみようかな」
T朗「行ってくれば?俺は行かないけど」
小1時間でホテルに到着。ロビーでひと通りの連絡事項のあと「マッサージ行かれる方は?」の寧々の問い掛けに「はい」と手を挙げたのは私ひとりだった。
女性や年寄り(失礼)が多いのに、マッサージって意外と人気が無い。それとも卑猥なマッサージだと思ってるのかな?
あれ?ひょっとして本当に卑猥なマッサージなんだろうか?