グリュー・ワイン
テラスになった石畳の道をウィーン大学を正面にして進む。突然、雪が降りだした。
気温も下がって来たらしく、結晶は融けることなく、丘からリンクへ降りる階段に差し掛かった時には足元にうっすらと積もり始めていた。低い雲で灰色だった空は舞い散る粉雪で真っ白に変わり、リンクを行き交う路面電車や自動車が霞んで見える。
足を滑らせないように慎重に塗れた石階段を下りるとリンクに出る。車道は黒く濡れているだけだが、歩道と路面電車の線路の間は既に白い。
ブルク劇場のところでリンクを横断して、ウィーン市庁舎前の広場へ。
市庁舎は5本の尖塔と細かい彫刻のある豪奢な建物。正面にはアーチ屋根のステージがあり、両側には三角屋根の露店が並んでいる。
酒とスナックを売る店、豚やてんとう虫等の縁起物の並んだ店、帽子やマフラーなどの防寒着を売る店、みやげ物店などがあり、並んだ小さな丸テーブルは、粉雪の舞うなかカップやビンを持った人達で結構賑わっている。
本場のドイツではもっと全然賑やかなのだろうけど、クリスマス・マーケットの雰囲気を垣間見れる感じで楽しい。
グルッとひとまわり眺めたら、まずは防寒着を売る店へ。UNIQLOのヒートテック上下に分厚い上着、厚手の靴下とトレッキングシューズ。カバンにはマフラーを忍ばせ、耳当てまでしているのに少し寒い。
これから夜になればますます気温は下がるに違いないから、もう少し防寒対策をしないと夜は乗り越えられまい。
似合わないので普段から帽子はかぶらない。もう長いこと、トレッキング用の帽子しかかぶったことがないのに、まさかここでニット帽を買う羽目になるとは・・・。
2~3試着させて貰い、露店の小さな鏡を覗く。う~む、微妙。
店の兄ちゃんが「もっと深くかぶれ」と私の頭に手を伸ばしてくる。こんな感じ?え、もっと?眉毛はすっかり隠れ、視界の上端に帽子の輪郭が見えている。なんか小さくないかい?
「Uh...COOL!」
ホンマかいな。西洋人はこんな感じにかぶるのか?何しろニット帽などかぶったことがないので分からん。なんか、黒板五郎っぽいな。
それはさておき、ニット帽はとても暖かい。よく、日本の若者達が冬でもないのにニット帽をかぶっている姿を見かけるが、あれって暑くないのだろうか?
防寒装備も充実したところで、体の中からも温めるべく、別の露店でグリュー・ワインと棒状のソーセージパンのようなものを買う。
他にもビールやワインやシャンパンやジュース、スナックは焼きソーセージやピザ、揚げパンのようなものも売っている。
グリュー・ワインはシナモンの香りをつけた温かいワイン。冬のヨーロッパではポピュラーな飲み物らしい。
青いカップにはクリスマスツリー・モーツァルト・市庁舎・星・雪だるま等が描かれ、賑やかで可愛い。
そして「2005」の文字も・・・?
なんだ、長年の使い回しなのか。そういや底の方が少し欠けている。
テーブルにもたれながらグリュー・ワインをちびちびやっていると、ヒゲを蓄えたおじさんがやってきて写真を撮ってくれるという。それじゃお言葉に甘えて、市庁舎をバックに1枚。
ソーセージパンを食べ終えたら、可愛いカップはおみやげに持って帰ることにして、まだ1/3ほど残ったグリュー・ワインを舐めながらリンクを左回りに歩く。
いつの間にか雪は止んでいたが、空は降りだす前の明るさには戻らず、そのまま夜に移りつつある。
ギリシャ神殿の様な国会議事堂の前を過ぎ、美術史博物館と生物史博物館に挟まれた庭園を抜けてマリアヒルファー通りへ。これで朝ホテルを出てからグルッと一周したことになる。
ホテルには戻らず、そのままマリアヒルファー通りの坂を上っていく。
今回の旅には、音楽とカフェの都ウィーンに挑むべくジャケットを持ってきたのだが、うっかりネクタイを忘れて来てしまったので、売っている店を探しているのだが・・・ほとんどの店がやっていない。
縁起物の豚を売る露店とファーストフード店が開いているのを除けば、朝の景色とほとんど変わらない。
日曜日だから?明日の大晦日はどうかな?
結局、本来の目的は達していないまま、キオスクの様な小さなスーパーがやっていたのでここでジュースやお菓子を購入。午後4時半過ぎ、ホテル着。
イルミネーションの街
シャワーを浴びて一休みしたら、まだ午後6時を少し回っただけだが、すっかり暗くなった街へ出る。
ライトアップされた国会議事堂を正面に見ながら、リンクを右回りに進む。すぐに市庁舎の5本の尖塔も見えてくる。
暗いリンクをひとかたまりになって車のヘッドライトが通り抜けて行く。窓から光を放ちながら進んでくる路面電車は「となりのトトロ」のネコバスの様。
やがて市庁舎前に到着。そこは夕方とは比べものにならないほど華やかで素敵な雰囲気に包まれていた。
細かい彫刻を浮きあがらせている市庁舎のライトアップ。イルミネーションに飾られた公園の木々。
アーチ屋根の特設ステージからは赤い光を放たれているが、観客はまばら。明日が本番らしく、ステージ上のバンドの面々ははリハーサルに余念が無い。マイクテストと音合わせの演奏が聞こえてくる。
暖かそうな黄色やオレンジの光に包まれているのは三角屋根の露店。ソーセージの焼けるいい匂いがしてくる露店には、湯気と煙りが混じり漂っている。
きっと、クリスマス・イルミネーションって、昼はどんよりと曇って夜が長く気分も沈みがちなヨーロッパの冬の日を、なんとか楽しい気分にするために始まったに違いない。
晴天が続く関東の冬では、イルミネーションの本当のありがたさは味わえないのかも知れないと思ったりする。
夕方歩いたルートと逆周りにブルク劇場の前を通り、目指すはライムのドア。
丘への階段を登り、テラスの道を行く。石畳がしっとりと濡れて、街灯の明かりに鈍く光っている。
誰も観光スポットと思ってないので、昼間でも閑散としていたこの街角に人の姿などあるはずがない。
映画の印象よりはかなり明るい。
暗いのは映画の演出だったのかも知れないし、それとも昔より街灯の数が増えたのかも知れない。でも、周囲の静けさはきっと1948年当時とあまり違わない様な気がする。
リンクを走る車の音は遠く、我々の靴音や話し声が周囲の石の壁に響いている。まして、映画のシーンは深夜。今よりずっと静かだったはず。猫の声など50m先からでも聞こえても不思議じゃない。
逆に、突然曲がり角から出てきた車に行く手を阻まれたマーチンスはどうだろう?
車の音など200~300m先から聞こえていてもおかしくない。そもそも、この道は坂の下からライムのドアの前を経て角の向こうにしか行けない一方通行。少なくとも現在はそうなっている。
丘を降りてハラッハ宮の前を通りかかると、薄暗い中庭から昼間見たクリスマス・ツリーが控えめなイルミネーションをまとってこちら見ている。吸い寄せられるようにツリーのもとへ。
周囲を雪のように白い壁に囲まれて物言わぬツリー、そして我々ふたり。
ウィーンの街中にいながら、まるで真夜中の雪深い山村の小さな広場に迷い込んだ様な感覚になる。
ハラッハ宮からだとアム・ホーフ広場まではほんの2~3分。昼間は限りなく単なる工事現場に近かったが、果たして夜になってどうかな?
通りの先に光が揺れ動くのが見えてくる。
揺れる光の正体は、工事中の建物を被うシートと窓が露出した建物がスクリーン替わりにされて流れている文字や映像だった。でも、それを見ている人などいない。
まだ、リハーサル・・・というか間を繋ぐために垂れ流されている感じ。特設ステージが恐竜の骨のようなシルエットで広場に横たわっている。
マーチンスがライムを見失ったアム・ホーフ教会脇の渡り廊下前は、街灯の明かりがあまり届かず、映画のシーンの記憶を蘇らせる。そこから続く裏路地は意外と街灯が明るくて安心だが、戦後間もない頃は真っ暗に近かったのかも知れない。
グラーベン通り。
人々で賑わう通りは、思わず歓声を挙げてしまいそうな素敵なイルミネーションに彩られていた。それは豪華なシャンデリアのよう。
流れるBGMは、ヨハン・シュトラウスのワルツ「春の声」。まるで、通り全体がまるで舞踏会場のようだ。
さすがに踊っている人はいないが、なんとなくワルツの3拍子にあわせて歩いてしまうのは我々だけでないだろう。ひょっとすると、明日の夜は本当に舞踏会場になるのかも知れない。
一方、きらめく滝の中を歩くようなイルミネーションはコール・マルクト。
滝の向こうに透けて見える王宮のドーム屋根を目指して進む。広場を包むように建つ王宮の前に、正直、昼間はあることすら気が付かなかったミヒャエル教会も、この時間はライトアップされてグンと存在感を増している。
再び狙うのは、風船おじさん登場シーンのアングル。王宮を背にしてリピツァーナー博物館の方向を見る。
角にあるスターバックスがちょっと明るいものの、昼に比べるとかなり雰囲気は近くなってきた。でも、やっぱり映画の中のような光と影には撮れない。当たり前だが。
こんなところから人が・・・という感じの建物と建物の狭い隙間。
ミヒャエル広場に面したその狭い通路を進むと、奥で少し開けて細長い裏庭のような路地になっている。
暗い道の真ん中には小さなクリスマスツリー。
ショーウィンドーの光が石畳に鈍く光っている。石畳の道にそれが眩しいくらいに感じる。狭くなった空を見上げるとミヒャエル教会の白い塔。
時々この路地に入ってくるのは地元の人なのか、小さなクリスマスツリーにもショーウィンドーにもミヒャエル教会の塔にも、ほとんど気に留めていない様子。
長さ数10mのこの路地で何度も立ち止まったり往復したりしているのは我々ばかりだった。
なぜか気になるミヒャエル教会の路地を抜けたら人通りの少ない裏道を南東に進み、綺麗なイルミネーションに誘われてにスピーゲル通りに入る。
スピーゲル通りを北に進むとシュテファン広場に出た。
シャンデリアのようなイルミネーションのグラーベン通り。赤いイルミネーションに統一されたローテントゥルム通り。イルミネーションに負けないくらいに露店とショーウィンドーの明かりが眩しいケルントナー通り。
その3つが交わる広場には、あのシュテファン寺院が黒い巨人のように闇夜に聳え立っていたいた。
大理石の色が残った南塔だけは光に白く光っている。
戦争の傷痕で黒くなった壁はブラックライトを浴びたように、浮かび上がった彫刻や造形の凹凸が青や緑、時に真っ暗へと絶えず変化している。
その神秘的で怪しげで寂しげにも見えるライトアップは、中世の繁栄と大戦での敗北、そして現在は永世中立国となり世界中から観光客を集めるウィーンの歴史を表現しているように感じた。
賑わうケルントナー通りを経て、再び国立オペラ座の脇に出てきた。
リンクを渡ってその全体像を確かめる。大通りに面して夜空に浮かび上がった優美で豪華絢爛な姿は、芸術の都の入口に立つ建造物として相応しい。
お腹も空いてきたので、そろそろ夕食にしよう。
昨夜はホテルに着いてすぐに寝てしまったので、今夜がウィーンの初ディナーとなる。
一旦、ホテルに戻ってシャワーで体を暖めてから出発。
目指すのはホテルから歩いて数分、繁華街ではない静かな通りの一角にある「ヴィトヴェ・ボルテ」。ガイドブックによれば、地元の人も訪れるという小さな料理店だそうだ。
シュニッツェル
ドアを開けると、目の前に防寒のための分厚いカーテンが立ちはだかっている。
カーテンの隙間から顔を出すと、目の前はレジでその奥が厨房。左右の間近にテーブルがあり、いずれも食事中のグループが座っている。
すぐに店員のお姉さんが来てくれたが、満席なので少し待つことになるらしい。再び寒い表に出るのは億劫なので、カーテンに囲まれた半畳くらいのスペースで立って待つ。
待っている間に2~3組がドアを開けたが、我々の姿を見て帰っていく。結構、人気店らしい。10分ほど経ってひと組が食事を終えて出て行き、入れ替わりに我々が店内にテーブルに案内された。
時刻は午後10時、今日も一日よく歩いた。
椅子と暖房と上品な照明がうれしい。まずは、ビールとワインをオーダー。食事はウィーン名物シュニッツェル、魚のフライ、サラダ。
シュニッツェルは肉を平たく叩いたカツレツ。見た目ほどしつこくなく、ビールにもワインも進む。魚のフライもハーブが効いていて旨い。