平坦な台地と緩やかな谷、そこに市街地と新興住宅地と農地と自然がジグソーパズルの様に組み合わさっている。「四街道」をひと言で表現するならこうなるだろうか?台地の上に市街地と畑や牧草地が広がる中心部と北西部。干拓地で水田の多い北東部。中西部は低地で、宅地造成が進行中。南東部は丘と谷とが続き、雑木林や竹林の在る古き関東台地の姿が残る。
これといった名所旧跡はないものの、決して広くないエリアにそれらが混然一体とした街の姿は、住んでいる者でも興味深い。市街地を抜けると突如現れる水田や牧草地。新興住宅地内と隣り合わせの鎮守の森。「竹取物語」に出て来そうな竹林。その中をクネクネと通る道は、方向感覚を麻痺させる・・・。
千葉県のほぼ中央に位置し、県庁所在地千葉市と、城下町佐倉市に隣接している・・・正確にはこの2つの市に完全に囲まれている。市の中心付近を総武本線、北側を東関東自動車道、南側を国道51号線がほぼ東西に横断する。
・市域/東西約7km、南北約9km、面積約35k㎡
・人口/約84,000人
・市の木/サクラ、市の花/サクラソウ
・姉妹都市/アメリカ合衆国カリフォルニア州リバモア市
中世までは原野に小さな集落が点在するだけだった四街道。戦国時代以降は軍事的にも経済的にも、佐倉藩の城下町として発展した佐倉市との結びつきが強まるが、大きな集落は存在しなかった。
しかし、黒船の来航により幕府から佐倉藩に砲術整備の命が下る。このとき、四街道の原野に盛り上がった「大土手山」が大砲の標的とされた。これが、その後の四街道の運命を決することになる。明治維新後、日本陸軍の創始者大村益次郎により下志津原に陸軍の演習場が置かれる。さらに明治19年、この地に「陸軍砲兵射的学校」が設置されると周囲に小市街が形成され始めた。
明治27年に千葉県初の鉄道「市川~佐倉」間が開通するとともに、軍事関連施設の拡張が始まる。明治32年に「陸軍野戦砲兵第18連隊」が置かれたのを始め、明治・大正・昭和にかけて「下志津演習場」「陸軍野戦重砲兵第4連隊」「陸軍飛行学校」「陸軍野戦砲第3旅団」等などが次々に置かれた。こうして、四街道は軍都として発展を遂げていく。
終戦により軍は解体。四街道は軍都として役目を終え、戦後の食糧難により広大な下志津演習場は復員者や満蒙開拓青少年義勇軍によって開拓され、農地へと転換されていった。
昭和30年3月、千代田町と旭村が合併して四街道町が誕生。人口は約18,000人だった。その後、軍跡地は政治・文教・商工業地区に変遷。昭和40年代に入り、首都圏へのベッドタウンとして幾つかの団地が開発され、急激に人口が増加。昭和56年4月に市制施行された。
現在は千葉市の市街地拡大に伴なって経済的には千葉市と一体化しつつある。事実、平成15年2月に住民投票により千葉市との「合併に向けての協議会設置」が可決され、「千葉市四街道区」となるのも時間の問題かと思われた。しかし、平成16年2月の四街道市議会議員選挙の結果、議席数は賛成派:反対派で完全に二分(12対12)することとなり、市議会は議長が決まらないなど混乱した(議長は多数決の票数に含まれないため、お互いに自派から議長を出したがらないのだ)。
そして、同年5月の「千葉市との合併の是非を問う住民投票」。その直前、当時の長野県知事「田中康夫」氏が四街道で街頭演説し、この効果があったのか何となく合併方向だった投票前の雰囲気を覆し反対票多数(約54%)。これに伴い6月に「合併協議会」は解散。四街道市は自立の道を選択したのだった。
ところが、同年10月の「四街道市長選挙」では、合併派だったはずの現職「高橋みさお」氏が再選。どこへ行くのか四街道・・・。