モンブランを目指して
7月8日、行程10日目。ジュネーブ上空は一応「晴れ」の部類だろうが、ずいぶんと雲が多い。昨日同様にテレビで天気をチェック・・・とその前に、ロンドンで何か大きな事故があったらしい。
めちゃめちゃになった地下鉄駅と、2階建てバス、それと怪我をした市民の姿が繰り返し流されている。なんだろう?アイルランドの過激派だろうか?語学力が低くて詳細は良くわからない(これがロンドン同時爆破事件だと知ったのは帰国後の事)。
いずれにせよ空港のセキュリティはさらに厳しくなるだろうから、重量オーバーなんかも大目に見てくれないかも知れない。おみやげ用のスーツケースを買っといてよかった。
さて、天気の方は・・・。
う~む、どこも雲が多く、あまりよろしくない。晴れていれば今日ももう一度ベルナーオーバーラントを目指すという選択肢もあったが、現時点の天候では止めておいた方がよさそうだ。結局、ここジュネーブが一応晴れなので、ここから近いシャモニ・モンブランを目的地にする。所要時間は1時間半程度だろう。
なお、ロンドンのそれがアルカイダによる同時多発テロだと分かったのは帰国後のことだった。
高速1号線に入り、西に針路をとる。すぐにフランス国境。ここでも減速するだけでスルー。昨日のロンドンの影響はないらしい。今度はすぐに料金所。フランスの高速道路はスイスと違って有料なのだ。
空は概ね晴れだが、進行方向の山々は厚い雲に覆われている。目指すモンブランはあの辺りじゃなかろうか?
途中のパーキングでトイレ休憩。車は我々の1台だけ。ぽかぽか陽気のもと、小鳥達の声がしてのどかな雰囲気。パーキングの一角にパノラマ地図を発見。これによると、本当は真正面に白く輝くモンブランが臨めるらしい。しかし、実際は白い雲が見えるだけ。モンブランの手前が曇っているのか、それともモンブランそのものに雲がかかっているのか?後者だとしても、山頂は雲の上なのか?望みは薄いが、それを確かめなければ引き返せない。
どこでどう間違ったのか、シャモニのまちの手前で山道へと入ってしまった。Uターンしようにも結構交通量が多くてままならない。やがて渋滞にはまり、ジワジワとしか動かなくなってしまった。
ふと見上げると、木々に覆われた斜面の先に、氷の塊がせりあがっている。あの緑がかった様で、青白い様でもある独特の色は氷河じゃなかろうか?氷河を見るのは初めてだが、ずっと上流がモンブランに続いているに違いない。
地図で現在地をリサーチ。どうやら、アルプスを貫くモンブラントンネルに向かう道にいるらしい。お?トンネルの入口が見えてきた。いかん!このままだとイタリア国境だ。 路肩の広いところを見つけてUターン。シャモニへと向かう。
あとで思えば、この時そのままイタリアを目指すというのもありだったかも知れないし、もし、あそこで渋滞してなければ、あのままイタリアに入っていただろう。だとしたら、この後の展開は全く違ったものになっていたに違いない。
視界ゼロ
シャモニは観光客でごった返していた。大きな建物など無い山あいの町で、雰囲気はちょっと軽井沢に似ているが、もっと大きく、もっと賑やか。まちを散歩してみる。人通りの多い目抜き通りを歩いていると、日本人が多いのに驚く。集団で歩いているので一層目立つのだろうが、どこから湧いてきたのかと思うほど。そういえば、昨日の夕方、我々の泊まるトリップベルンにも日本人ツアー客が大勢入ってきたっけ。今回の旅行で1番多くの日本人を見たのがこのシャモニのまちだった。
あこは何やら調子が悪いらしく、あまり元気がない。昨日、雨に濡れながら歩いたせいかもしれない。シャモニのまちの北側から出ているリフトに乗ろうと、そちらに向かいつつ歩いていたが断念し、公園のベンチで一休みする。しばらくすると、少し元気が出てきたようなので、まちの南にあるエギュイーユ・デ・ミディ展望台行きのロープウェイ乗り場に向かう。
モンブランを望むエギュイーユ・デ・ミディ展望台は3,824m。富士山より高い。シャモニは標高1,000mほど。空は雲に覆われている。2,800m上は果たしてどうだろう。雲の上に出ていると良いのだが・・・。
しかし、残念ながら切符売り場で我々は見てしまった。窓口のガラスに貼られた紙には、荒々しい日本語でこう書かれていたのだ。
ネ見界セ゛口
おおっ神よ!3日連続で悪天候とはあんまりじゃないか!それに字もあんまりだ。他に何か表現のしかたがあっただろうに・・・。
一昨日のレマン湖周辺のドライブ、昨日のベルナーオーバーラント、そして今日のシャモニ・モンブラン。天気が悪いかも知れないと思いがら、都合の良く期待をして出かけ、いずれも裏目となってしまった。打ちひしがれてトボトボと車へと戻る我々。
さて、これからどうしよう?
明日の午後にはジュネーブを発たねばならない。スイスに来てアルプスを見ずに去るなんて悲しすぎる。他にどこかアルプスを見れる可能性がある場所はないものか?でも、今朝はゆっくりだったせいもあって時刻はもう正午に近く、行動範囲は限られるが・・・。
あと、スイスアルプスと言ったら・・・残すはマッターホルン!
しばし地図とにらめっこ。マッターホルンはスイス中南部のイタリア国境。今いるのはスイスの西の端、正確にはフランス国内にいる。道のりは150kmほど・・・遠いなあ。
ここからしばらくは山道で、峠越えもある。その先に一部高速道路区間があるとは言え、車が入れるテッシュまでは順調にいっても3時間くらいはかかるだろう。これだと到着は午後4時頃になる。
テッシュ~ツェルマット間は登山電車。この往復と滞在時間を入れて最低3時間。これで午後7時。
帰りのルートはほぼ高速道路だが、それでも4時間以上はみないといけないから、ジュネーブ着は日にちが変わる頃になろう。しんどそうだ。晴れている保証はどこにもない。
どうする?行くか?
マッターホルンを目指して
よ~し、行こう!天気が良いか悪いかは分からない。でもどちらにせよ、ここでマッターホルンを目指さなければ、なんだか後悔しそうだ。
仮に見えなくてもいい。
アイガー、モンブラン、それにマッターホルン。この目で見たいがためにスイスを駆け巡った。それはそれでありじゃないか?そう割り切ったら俄然元気が出てきた。あこの体調も回復しつつあるようだ。
くねくねと曲がる山道を登っていく。霧が出てきて小雨も降ってきた。山は険しくなって渓谷が幾重にもなっているようだが、霧で遠くの方はよく見えない。 やがて国境の小さな村。ここも軽くスルーしてスイスへ・・・と思ったらストップ!
まじ?怪しまれた?しかし、ガサゴソとカバンからパスポートを取り出した途端に、
「Japanese?OK.」
と表紙を眺めただけで手にも取らず通してくれた。こんなに信用のある国に生まれた事を我々は感謝しないといけない。そして自信と誇りを持たねば。でも、入管のスタンプを押して貰うチャンスは失われてしまった。
やがてフォルクラッツ峠に到着。小さな売店とトイレがあるだけの山あいの峠。牛たちがかったるそうに草を食んでいる。霧の中からもカウベルが聞こえてくる。さらに、霧の中から人影が・・・。この悪天候のなかでもトレッキングをする人は結構いるらしい。
シャモニから雲のなかの小さな峠をいくつか越えてきたが、フォルクラッツ峠を越えて坂を下るうちに急激に天候が回復してきた。やがてパッと視界が開けた。
広い谷底に見えるのはマルティニの街。ローヌ川と線路と高速道路が大きな孤を描いている。その右手の一部が旧市街の住宅密集地なっており、あとは中くらいのマンションが立ち並ぶ比較的新しい市街地のようだ。手前の急斜面はブドウ畑。その下に突き出た小さな高台には、円筒形の搭を持った城が築かれている。
すぐ下から農作業をする2~3人の声がしている。覗き込んでみたものの、斜面が急なうえにブドウの葉が生い茂っていて姿は見えない。
つづら折りの道を下っていくと、さっきの城が近づいてくる。興味はあるが、いまはツェルマットに一刻も早く着くことが最優先。マルティニから高速道路に入り、ローヌ川が造った広い谷間を東へ。
道は微かな上り坂。川の上流に向かっている。逆に下流にいけば30kmほどでレマン湖の東端モントルー。両側の平らなところには田舎町と畑が交互に現れ、斜面の部分にはぶどう畑が続いている。
天気もいい。雲は多めだが、その雲の高さがこれまでと違って断然高い。左手の岩山の上に城が見えたらシオンのまち。この先で高速は終了。テッシュまでは60kmほど一般道を走る。ヴィスプまでの30kmはここまでと同じでローヌ川に沿って東進。そこからは南下しながらマッター谷を30kmほど遡ればテッシュだ。
天気は良い。エアコンを入れた車内でも感じる陽射しは、スイスに来てからは一番の強さ。
とある田舎町のガソリンスタンドに寄る。しかしこのスタンド、セルフなだけでなく全くの無人。操作パネルの文字も消えかけた古い機械で、強い陽射しのせいもあり読み取りが困難な液晶パネル。これに挑む。
むむ・・・こいつは難しい。
このあとは山に入るし帰りは夜中。そろそろ給油しないとヤバイので、しつこくチャレンジする。5分以上して、ようやく他に車が入ってきた。
助かった。そのドライバーに教えを請う。
うまくいかなかったのは、この機械はVISAカード限定だったためだった。さすがに日本信販はダメだろうと思ってMasterカードを選んではいたのだが・・・。機械の周囲をよく見れば、VISAのシールが給油機に貼られていた。もっとも、完全に色褪せて灰色になってはいたが。
幸いVISAカードも持っていたので、ようやく給油を完了し、さらに東進。
谷の幅が少しずつ狭まってきた。道路は真っすぐで単調だが、綺麗なポプラ並木とその長い影の下を走るドライブは心地い。太陽は背後から当たっている。雲は多目だが、この分なら山の方も大丈夫だろう。そしてマッターホルンはどうだろう?果たして、その姿を我々に見せてくれるのか否か?
スイスに来て4日目、なにしろ雪山は飛行機のなかからしか見ていない。そんな事をグルグルと幾度も考えている。カーステレオからイーグルスの「Take it easy」が流れてきた。
そ~だよ、なるようになるさ。ここまできて思い悩んでも仕方がない。そう割り切ることにした。でも、なぜかちょっとだけ涙がでてきた。あこは助手席で寝ている。
平坦ながら狭い谷底には、ポプラ並木以外に、綺麗な芝生や草原、それからカマボコ状に盛り上がったえん蔽壕、点在する無骨なコンクリートの四角い建物、よくみると山の稜線にレーダー。揚げ句の果てはヘリコプター。どうやらこの一帯は軍事基地になっているらしい。永世中立国でも、ちゃんと軍隊も持っているのか・・・。
そういえば、バチカンの衛兵もスイス軍だった。
ヴィスプからは山道になり、じきにサースフェーとの分岐を越える。道路と線路と川が、絡まりあいながらマッター谷を遡っていく。谷底は狭いが、大きく開いたV字の谷で明るく視野も広い。両側の斜面は、そのまま雲に見え隠れする尖った峰々の稜線まで延びている。氷河が地表の土壌を削りとってしまったためか、岩や砂利が多い。土地は痩せていて、運よく土がたまった場所にかろうじて草木が生えている感じ。ハイジが駆け回れるような牧場などはない。
ツェルマット
いくつか小さな集落を過ぎつつ、カーブ連続する道を谷の奥へとひたすら遡る。並んで走る登山列車の方が早い。あっちの方がカーブ緩やかなようだ。
やがて盆地のような広い谷の奥まったところに集落が見えてくると、そこがテッシュ。建物の割には大きな駐車場を備えたホテルやレストランが街道沿いに並んでいる。
ツェルマットには排気ガスを出す自動車は入れない。だから皆、ここに置いていくのだろう。我々もテッシュ駅を過ぎてすぐの公共駐車場に車を入れ、山用の衣服にチェンジ。時刻は午後4時半。
やってきた登山列車は、最新式の綺麗なやつだった。これならヴィスプからの山道で追い抜かされてしまったのも頷ける。出入口付近は広く低床で人に優しい造り。
シートは3列+1列のちょっと変わった並び。でも考えてみると、普通の2列+2列のシートで他人と隣り合わせにならないようすると、4つのシートに2人しか座れない。これだと乗車率は50%。
一方、3列+1列だと、3人座れるから乗車率75%にある。さらに、グループ客の場合でも、2人組、3人組、4人組、それ以上でもあらゆるパターンに対応可能。なかなかの優れもの。
さて、テッシュから終点ツェルマットまではひと駅、15分足らずで到着。小さな駅前広場は賑やかだった。3人組のバンドがいて陽気なアルペン音楽を奏でている。
宿泊施設のインフォメーションボードの前には、荷物を持った旅行者達が大勢いて、今夜の宿を探している。空き状況が一目でわかるようになっているようだ。
ホテル名の入った小さな電気自動車が人々の足になっている。それが入れ代わり立ち代わり駅前にやってきては、旅行者をピックアップしていく。なるほど、我々もジュネーブに戻ることを前提にせず、思い切って他の町に泊まるという手もあったかなぁ。もっとも、そんな準備はしてきてないし、お金ももったいない。
澄んだ空気、涼しい風、青い空は日本の秋晴れの日のような感じ。ツェルマットの目抜き通り「バーンホフ通り」を南に歩く。目線は常にマッターホルンがあると思しき方向、右斜め上にある。青空だというのにマッターホルンの顔は拝めない。谷が深いせいか、それとも雲に隠れてしまっているのか?どうやら後者の可能性が高そうな感じだが、なにはともあれ高いところに出てみよう。
しばらく待っていれば、気難しいマッターホルンもひょっこり顔を出してくれるかも知れない。地下ケーブルカーでわずか3~4分、一気に700m上まで駆けあがれるスネガ展望台を目指すことにする。
目抜き通りをそれて川を渡り、マッター谷の西側斜面にへばり付いたケーブルカーの駅へ。改札口の向こうは、暗く湿っぽい長いトンネル。乗り場はその先だった。
運転士はいない。ただケーブルに引っ張られていくだけらしい。乗客は我々と、マウンテンバイクを携えた青年の合計3人だけだった。この時間に上を目指すのはよっぽど物好きらしい。マウンテンバイクの青年は、それで山を下りようというのだから、さらなる物好きかも知れない。
スネガ展望台
ケーブルカーが動き出した。暗いトンネルをひたすら走る。我々は最後尾で、吐き出される線路と、流れていく蛍光灯の明かりを眺めるだけ。
あっという間にスネガ到着。標高は2,293m。まずは帰りの便を確認。終電車は2本先で、あと1時間足らず。つまりマッターホルンにはそれまでに機嫌を直して貰わいといけない。
スネガの駅は、その上に展望レストランが乗った造りになっていてる。レストランはもう閉まっている時間で、脇の階段を昇って直接テラス席にでる。テーブルの閉じたパラソルがしぼんだ朝顔の様。マウンテンバイクの青年が走り去ってからは、周辺にまったく人の姿はなくなって静寂だけがあたりを包んでいる。
半円を描いたテラスの縁まで進む。マッターホルンはどこだ?姿は見えない。それ以前にどの方向にあるのかが分からない。本当にこの向きでいいのか?ガイドブックの地図と目の前の景色とを見比べてみる。
右手から伸びてきたマッター谷が別れて、左と奥に伸びている。それらを抱くようににて緩やかなカールを描いた山塊が3つ。
右手にひと塊、正面奥に少し高い一群、左手前はスネガからつながるような感じでなだらかな台地状。どれも下のほうは緑の草地で、上のほうは黒い山肌が見えている。高いところには幾筋もの氷河が白い流れを造っているが、複雑な地形と風が雲を生み源流まではよく見えない。
左の山塊の斜面に見える軌道がゴルナーグラート鉄道。だとしたら、あの山の向こうにモンテ・ローザをはじめ4,000m級の山々が見えるはずだが、雲に覆われてしまっている。
真ん中の山々は奥まったところにあるうえ、左から続いている厚い雲の端がかかっていて様子が分からない。右手の山々は比較的雲が薄く、白い雪を抱いた細く切り立った崖の裾のあたりまでが見えている。マッターホルンはきっとあの上に隠れているに違いない。
ようやく・・・ようやく、スイスアルプスらしい景色を見ることができた。
でも、マッターホルンが見たい。あの雲が一瞬でも消えてくれることを祈りつつ、終電時間ぎりぎりまで待つことにする。どこからか羊の声がするので、その方へ向かうと、真っ黒な顔のモッサリしたヤツを発見。次に、岩場に何かいる!っと思ってそちらを見ると、マーモットが顔を出している。ボーっと眠そうな表情で夕日を浴びている姿は可愛らしい。そのくせ、少しでも足音をたてるとすぐに隙間に隠れてしまう。それでも、10秒くらい静かに待っていれば、再び顔を出す。
ゴルナーグラート鉄道が谷へ下りていくのが見えるが、その音もここまでは届かない。恐らくあれが終電だろう。聞こえるのは羊の鳴き声と、自分の足音だけ。他に人の気配はない。風もほとんどなく、草木の揺れる音もしない。
ヒンヤリとした空気に包まれた静かな夕方。スイスの山々を前にしてただ2人、マッターホルンが顔を出すのを待つ。旅の終わりにこういうのも悪くない。
ひょっとして、マッターホルンはあっちじゃないの?
雲の形は絶えず少しずつ変化している。正面の山塊にかかった雲の影からのぞいた切り立つ斜面。あれだとしたら、イメージしていたより遠い。でも、周囲のどれよりもシャープなラインからは、雲のなかにあるであろう美しいシルエットが違和感なく思い描ける。
もう一度、あたりの地形をよく観察してみる。
マッター谷と中央の山塊中腹までを、まっすぐスーッと一直線にロープウェイ伸びており、さっきの切り立った斜面はその延長線上。ガイドブックの地図によると、ロープウェイは谷とシュヴァルツゼーを結ぶモノらしい。
一方、初めにマッターホルンがあると思っていた右手の峰には、それらしきロープウェイは見えていない。
おいッ!マッターホルンはあっちだ!
意識を変えて見直すと、さっきまでは完全に雲に隠れていたと思ったマッターホルンだったが、今は肩口までその姿を見せていた。さらに、だんだんと雲が移動して、首筋あたりまで見えてきた。
もうちょい、もうちょい・・・。よ~し、アゴあたりまでの見えてきた・・・気がする。お願い!あともう一息。
どうだ、行けッ!いけるか?う~む・・・いかん、膠着状態だ。でも、まだ終電までは20分近くある。まだ行ける。
あと15分・・・まんじりともせず一点を見つめる我々。依然として膠着状態。だいぶ気温が下がってきた。
10分前・・・数人のグループが足早やに駅の中へ入っていく声が伝わってくる。
5分前・・・もう限界。お別れだ。
「また、今度な」
雲の中から、マッターホルンが話し掛けた気がした。最期にもう一度だけ、ゆっくりと山々を眺める。
うん、そうだな。残念だけどしかたない。また今度の機会にしよう。でも、不思議と悔しい気持ちはなくて、なんだかすがすがしい気分。思い切ってここまで足を伸ばして良かった。決めたよ。必ずもう一度ここに来るってことを。
ありがとうマッターホルン!あばよッ!
シオン
ツェルマットの街は、ほんの1時間のうちにずいぶん夕方っぽい雰囲気に変わっていた。時刻は午後6時半。本当ならまだ昼間の明るさのはずだが、やっぱり谷が深いのだろう。
今から真っ直ぐジュネーブに戻っても午後10時を回るだろう。きっと、レストランもほとんど閉まっているはず。
だったら、ヨーロッパ最後の夕食はホテルの部屋で質素に済ますことにしよう。ウチの両親も、ホテルでの滞在中はパンばかり食べているらしい。最後くらいは我々もコレをやってみるのもいいだろう。そうと決まれば、ツェルマット駅前にあるスーパー「COOP」へ。
まずはパン。夜に食べる分と、いまから食べる分の両方。気がつけば昼食抜き。ハラが減った。次にサラダ・・・というか、ちぎった野菜のパック、それとハム。これにローマで貰ったカッテージチーズを加えれば結構それらしくなる。最後に、忘れちゃいけないワイン・・・と、こんなところかな?
店内には同じように食材を買う日本人の姿も多い。あとはおみやげを兼ねて、マヨネーズ、ケチャップ、缶詰など。それと、道中のオヤツにも今夜のツマミにもなるようなお菓子やチョコなどを買い込む。
トレッキングシューズで両手にビニール袋という妙な恰好で列車に乗り込み、テッシュへ。閑散としたテッシュ駅前でパンを頬張り栄養補給。これからの長いドライブに備えねば。
マッター谷のカーブの続く下り坂。行きよりも車が少ないせいもあるのだろうが、みんな結構飛ばしている。景色を見ながら片手ハンドルって感じじゃない。慣れない右手でシフトチェンジをしながら一生懸命ついていく。右カーブのときはちょっと怖い。
ローヌ川に出会ってからはのんびり運転になる。疲れた体にはありがたい。眠さはない。ポプラ並木の影に入る時以外は、眩しい夕日を浴びているからだろう。
右前方の岩山の上に城が見えてきたらシオンの街。まだ結構元気が残っているので、行ってみることにする。明るいうちは、なるべく寄り道しないと、なんだかもったいない。
城は岩山の断崖の一方をローヌ川に接し、攻めづらく守り易そうな立地をしている。実際、近付くことさえ苦労する。ローヌ川に架かる橋は少なく、また、ふもとは旧市街になっているせいで、車では上に向かう道が良く分からない。結局、ローヌ川の岸まで離れて、そこから城を見上げることにした。
ローヌ川の外側の堤防沿いに道に車を止める。こちら側は新市街というか、公団住宅のようなアパート群となっている。堤防の上はポプラ並木になってるので、城を見上げながらの散歩。夕暮れの少し冷たい風が枝をザワザワと揺らしている。対岸は線路で、岩山はその向こう。
ローヌ川ガイドブックと見比べれると、高速から見て城だと思っていたのは実は教会で、右手奥にもうひとつある建造物が城だったらしい。
シオンからジュネーブまではずっと高速になる。それでも約250kmくらいあるので3時間位はかかりそうだ。
走るにつれ少し雲が増えてきたが、雲と谷の隙間の狭い空から低くなった夕日が射してきて、周囲の畑や山々があかね色に染まっている。きっと、明日は晴れだろう・・・って、昨日も同じこと言ってたな。
レマン湖がみえてきた。太陽は地平線の向こうにすっかり姿を消してしまったが、あたりは明るさが残っている。少しでも明るいうちは貪欲に動くことにする。本日最後の目的地は、一昨日の午後に大雨のためにやり過ごしたシヨン城とした。
シヨン城
手前のインターで出れば良いのに、さらにモントルーの旧市街を見てやろうと・・・欲をかいて、モントルーの先まで行ってから高速を下りる。
ところがこれが大失敗。インターを出た途端、市街地へ向かう道は交通規制がされていて大混雑。警備員に誘導されるがままに進んでいくと、丘の上の大きな駐車場に入ってしまった。イカンイカン。
満杯の駐車場を脱出して、渋滞のなかノロノロ運転でさらに街の方へ下っていく。雨が降り出した。ようやくモントルーの市街地についたときには雨は本降り。そのため車はさらに大渋滞。
一方、この雨にも関わらず人込みはすごい。なにかイベントでもやってるらしい。これが「ワールドジャズフェスティバル」なのだと知ったのは、翌日なって現地ガイドのフジモリ氏に聞いたときだった。
30分くらいかけて街を通過し、シヨン城に着いたときにはすっかり暗くなっていた。道路脇の駐車場に車を止めて、小雨の中を城まで歩く。車のヘッドライト以外に周囲に明かりはなく、ライトアップされた城だけが薄ぼんやりと浮き上がっている。線路の上を渡り、城のすぐ横にでる。他に誰もいない夜の城を見上げるなんて、あまり気味のいいもんじゃない。濡れた細い階段を下りると小さな庭園になっていて、そこからだと城の全体を見ることができる。
レマン湖の水面も周囲もすっかり暗くなってしまったが、空はまだ明るさが残っていて、城がシルエットを浮き上がらせている。空って、日が沈んでもこんなにいつまでも明るいものだったのか・・・。
むしろ、地上に近いところの方が先に夜が訪れる。普段の生活だと、地上は暗くなるより先にネオンや照明の光りに包まれてしまって、このことには気が付けないのだろう。
混雑を避けてモントルーの手前で高速に乗る。さすがに空も真っ暗闇。途端にドドーンと押し寄せて来た目と体の疲れと戦いながらハンドルを握る。そのくせ妙に神経だけは高ぶって眠くないのだから不思議。時計が午前0時を少し回った頃、ジュネーブ着。あまりガラのよろしくないトリップベルンの周囲も人通りが減っている。昌婦だけはこの時間も変わらない。
27時間振りに戻ってきた部屋で、ツェルマットで買った食材と、ローマみやげのチーズと、今日の出来事をワインで胃袋に流し込み、すぐに寝る。燃え尽きた・・・新婚旅行なのに。