プロローグ
「あ~ココね。痛みは?今のところ無し・・・と。普通は痛いんだけどね。とりあえず強酸洗浄して。新婚旅行だって?いつからいつまで?じゃあ、抗生物質を10日分。腫れたり化膿したら飲むこと。痛みがおさまってもしばらくは続けるように」
いつもは饒舌な先生なのだが今日は忙しいようで、手短なやりとりだけでその場を立ち去りかけた。ここは職場から程近いN歯科の診察室。数ヶ月前に虫歯治療にかかったのが最初で、来月(7月)には親知らずを抜く予定にしていたのだ。コヤツがなかなか厄介で、歯茎の下で変な向きで留まっていて、数年前から時どき腫れを引き起こしていたのだ。
歯茎の内側に痛くない口内炎が出来てるのに気付いたのは10日位前。ひょっとして親知らずが生えてきたんではないか?と疑いをもったのは2日前の事だった。それは痛くないだけで無く、指で触れると硬かったのだ。
近隣県からも患者が訪れるという評判のN先生。それを大慌てで電話して、無理くり予約をねじ込んでもらったので、多少、忙しそうなのは目をつぶろう。でも、肝心なことを聞いていない。立ち去る先生を呼び止める。
「先生、コレってやっぱり親知らずですか?」
「いや、骨だね。」
「!」
水平になった診察椅子の上で二の句を告げずにいる私を残して、先生は次の診察へと去っていった。
なんてこった・・・。
明後日から新婚旅行だというのに、歯茎から骨が顔を出しているなんて。一体、口の中では何が起きているのか?しばらくの後、戻ってきた先生によると、原因はやっぱり親知らずだそうだ。コイツが生えたがって骨を押し広げ、その骨が歯茎を突き破っているとのこと。
34年間も沈黙していたものが、よりによってこのタイミングで火山活動を開始したらしい。これはひょっとして、仏滅入籍、仏滅披露宴、あげくの果てに新婚旅行出発日も仏滅という神も仏も恐れぬお日柄選びの報いなのか?
ここで話は数ヶ月前にさかのぼる。
「絶対にパリが良い!パリを見たら価値観が変わる!」
そう言って今回のコースを強く勧めたのは、他ならぬ私の両親だ。父親の定年を機に、生まれて初めて行った海外がいきなりヨーロッパだったふたり。その後、海外旅行に憑かれた老夫婦は、毎年のようにふたりでヨーロッパ旅行に行くようになった。少しは息子に金を残そうと言う気持ちはないのか?
で、ヨーロッパ各地を旅したこの老夫婦の結論が「パリが一番」だったのだ。父親が心筋梗塞で倒れた昨年の4月。その直前にも7日間ほどフリープランでパリに滞在していた老夫婦。「パリに死す」 にならなかったのは幸いであった。
やがて、強靭な肉体と精神力・・・では無いので、間違いなく「運」と「家族の日頃の行ない良さ」で一命を取りとめた父親(あとは、N赤十字病院の先生方のおかげです)。「復帰1周年」と称して、医者の言うことも聞かず(正確には病院に行かなくなってしまった)我々の結婚式を直後に控えた5月末にも夫婦でパリ8日間の旅をしてきたばかりなのだ。 この老夫婦を引きつけて止まないパリの魅力とは一体・・・。
シベリアと北極海
2005年6月30日、定刻どおりの午前11時10分。日本航空405便は土砂降りの成田空港を飛び立った。やっぱり、この雨も仏滅のせいか?
空港までの移動の間に服や足元はびしょ濡れ。当然、スーツケースもびしょ濡れになる。
親から借りたサムソナイトだが、果たして継ぎ目の防水性能はどの程度なのだろう?開けてみたら、中の着替えが濡れていたなんて最悪だが、かと言ってフライト前にスーツケースを開ける気にもなれず運を天に任せる。
いい席を取ろう!
と午前7時半過ぎには成田空港入りしてチェックインしたのだが、機体のうしろの方から5番目位の真ん中4列の席だった。これは仏滅だからではなくて安いツアーのせいだろう。
さて、今回の旅程はパリ3泊・ローマ2泊・ジュネーブ4泊の9泊11日。基本コースはパリ・ローマ7日間で、これに追加プランで、フィレンツェまたはジュネーブ2泊が可能。ここに我々は、さらにジュネーブ2泊の延泊をつけたのだ。ツアー費用は一人あたり約40万円。さっき「安いツアー」と書いたが、40万円が安いという意味じゃない。私の所得で80万円は大金だ。ホテルや食事などのランクが低いツアーだという意味である。
添乗員さん付きのいわゆるツアー旅行は5年前の中国以来。個人旅行に比べて安心なうえに費用も抑えられるのは良いのだが、自由時間が少ないことやスリルが無いこと、それに集団の煩わしさ等のデメリットも感じた中国だった。でも今回は、ジュネーブの4泊の間はもちろん、前半も比較的に自由時間があるので違った印象になることであろう。
さて、移動中の機内ではビールを飲まないことにした。これは初めての試み。機内で飲むビールは、どういう訳かあまり美味しくないと感じる事が多かった私。気圧の違いやプラスチックのコップのためもあるかもしれない。
でも果たしてそれだけか?検証してみた。まずは、待ち時間に成田空港でビールを飲んでしまった事が挙げられる。そりゃ当たり前だ…と片付けてはいけない。ふだんの国内の出張の時と違い、慣れない海外旅行となれば好んで時間直前に空港に来はしない。余裕を持って空港に着き、長い待ち時間に何か口にするほうが普通だろう。すなわち「空きっ腹にビールをグイっと一杯」っていう場面に至る可能性自体が非常に低い。
次はツマミ。枝豆・冷奴・刺し身・焼き鳥などのビールの良きパートナーが機内にはない。あるのは、あのナッツだけ。それと寝ぼけた味の機内食。そもそもが食事であってツマミではないのだが。それと狭いシート。ただでさえ小さいのに、缶とコップでより窮屈になったテーブルに肩をすぼめてにナイフをたてる。ベルトを締め、くの字に折った体に流し込まれたビールは、揺れと低い気圧に行き場を失って胃壁を圧迫。嗚呼、哀しきエコノミー。
で、私はウイスキーのソーダ割り。あこは梅酒のソーダ割りをオーダー。ビールほどの量は飲まないし、微炭酸の清涼感が食欲を増す。機内食との相性もまあまあだ。そうそう、先ほど「寝ぼけた味の機内食」といったが、これも添えられた塩とコショウをガッツリかけることで、栄養学上は好ましくないかもしれないがキリリと引き締まった味付けになった。これも新たな発見。もともと、薄味に設定されているのだろう。
客室最後部にある小さな窓から見えるのはシベリアの大地。さっきからず~っとそうだし、離陸後4時間ほどで訪れる短い夜の前もずっとそうだった。
夏を迎えたツンドラの地平線まで続くその灰色がかった緑の絨毯。そこにはグネグネに蛇行した幾筋もの川が黒く、そして時に白く光って見え、教科書に出てきそうに見事な三日月湖をいくつも従えている。一見、乾いて見える平原は、実際は融けだした凍土が作った湿地で、水に反射した太陽が小さく揺らぎながら地面を移動していく。
飛行機でも何時間もかかるほど広大な、しかも人間がロクに暮らせないような平原。これをひとつの国家にしてしまおうとしたロシアという国の膨張欲求たるや、島国の人間には理解し難い。もっとも大東亜戦争時には、我が国もだいぶ遠くまで侵攻したが。
大河の河口か湾のような地形が見えてきたが、雲が出てきて下界が閉ざされた。が、再び雲が切れると、蒔き散らされた白い桜の花びらのように氷のかけらが青い海に広がっていた。北極海だ。同じ窓からやはり外を覗こうとしていたフランスの老婦人に場所を譲りながら話しかけてみる。
「マダム、北極海だよ。凄いね」
と日本語で。でも、こうゆうときは別に言葉が通じなくても良し。同じ驚きを共有できればOK。マダムが持ってきた地図を2人で指差しながら、飛んでいるのはこの辺か?それともこの辺か?とやりとり。現在地もフランス語もよく分からんが、この地図が機内誌を引きちぎったモノだということは判明した。ふ~む、やるなマダム。
ふと見ると、客室最後部を横断する通路の壁に飛行コースと通過時刻を示した手作り風の地図を発見。さっき見えた大河か湾のようなものが、どうやらヤマル半島だったと判明。マダムも納得。のちにこの壁の地図は、キャビンアテンダントさんが「記念に」と私にプレゼントしてくれて、おみやげの第1号となった。
パリ第1歩
シャルルドゴール空港・・・この響きだけでも「セボ~ン」って感じだ(←意味不明)。午後5時近いというのにサマータイムと緯度の関係で日本の午後2時位の感覚。
集合したメンバーは僅か6人。同じ千葉県から参加の中年U夫妻。それと、東京の新婚K夫妻と我々。曇り空のした、マイクロバスでパリ市街へと向かう。
道は渋滞していて、田舎の風景のなかをノロノロと進む。乾いた感じの牧草地や畑がなだらかな丘陵地帯に広がっている。パリ市街に近づくと雨になった。雨に煙るセーヌ川の北岸に沿って西へ。
結局、空港から1時間以上もかけてようやくホテルに到着。これは成田空港をバカにできない距離だぞ。
「メリキュール・ド・パリ・ラデファンス5(サンク)」という長い名前が今夜のお宿。ラデファンスは、パリ市街の外側にできた比較的新しいビジネス街になっている。部屋の窓からは雨上がりのヒンヤリとした空気が入ってくる。視界の左右両側は高層マンションで、ひらけた正面に見える小さくとがったものは・・・おお、エッフェル塔!
シャワーを浴びたら早速出発。歩いてメトロのラデファンス・グランド・アルシェ駅を目指す。ホテル名も長いが駅名も長い。ラデファンスの中心部は綺麗な高層ビルが林立し、幕張新都心の雰囲気だ。隣接するマンション群は坂の多いニュータウン風。その周囲は、下町風情が残る商店や飲食店などが並んでいる。
ラデファンス・グランド・アルシェ駅まで歩いていく。ちょうど、駅に向かう仕事帰りの人達が多く、その流れに乗っていく。
すぐに地下街へ入る。右へ左へと曲がるが、あちこちにあるメトロを意味する【M】マークがあるので間違うことはない。でも、駅からホテルに帰る逆方向はややっこしそうだな。
回数券カルネを買い求めるためにラディファンス駅の窓口に並ぶ。列は長くて進みも遅い。その周囲をビジネスマンやキャリアウーマン風の人達が通り過ぎていく。みんな服装も立ち振る舞いも颯爽としていて実にカッコイイ。
「Bonjour」
と窓口のオッサン。日本と違って、こちらではみんな気軽に挨拶を交わす。挨拶はコミュニケーションの第1歩。これくらいはフランス語でやりたいものだ。
「ぼ、ぼんじゅーる。ラ・カルネしるぶぷれ?」
カルネとは回数券のことで「10枚で10ユーロ」とガイドブックに書いてあったのだが、値上がりしていて10.5ユーロだった。
準備万端、窓口の列に並んだ10分前から10ユーロ紙幣を握り締めていたのだが、出鼻をくじかれ焦ってポケットの小銭入れを探る。すると、これを見たコワモテの窓口のオッサン。
「ノープロブレム。慌てなくてイイ」
ニッコリと微笑んで言ってくれただけでなく、去り際にはなんと
「ドモ、アリガート!」
と日本語で送ってくれたのだ。
誰だよ~。フランス人はツンケンしてるとか、英語を判っていても話さないなんて言ったのは。良い方に事前情報を裏切ってくれたこのオッサンのお陰で、とても良い印象でパリの第1歩を踏み出せた我々だった。
凱旋門
ラデファンスからは【M】マークのメトロ1号線と、【RER】マークの高速郊外鉄道のふたつの路線が出ている。乗るのはメトロ。ホームに時刻表は無いが、5分おきくらいに頻繁に運行していて使い勝手がよさそうだ。
メトロの多くはドアは自動で閉じるが、開くときには手動となっている。この1号線は全自動ドア。しかし、大抵それは車両が完全に停車する前に開く。開いてからも50cmくらいは走ってしまっている。これが日本なら大問題だろうが、パリでは大丈夫らしい。
それと、車輪がゴムタイヤになっているせいで、結構急加速で急停車。乗り心地はいまいち。
メトロはセーヌ川を渡る際にいったん地上に出たあと、すぐにまた地下へ。やがてシャルル・ドゴール・エトワール駅に到着。でも、どの出口から出たら良いか見当がつかない。ままよ!っと適当なひとつを選び、その先に現れたエスカレーターで地上に上がっていく。
無表情なエスカレーター。その昇りきった終点の先からドーンと姿を表したのは、まさしく凱旋門!
高さ50mのそれは、想像していたよりデカイ。大きいだけでなく圧倒的な存在感。この凱旋門を造ったのはご存知ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン1世)。
独墺露伊の連合軍を打ち破ったナポレオンがどんなに嬉しかったかが想像できるってものだ。1806年に建造を命じたものの、残念ながら彼の存命中には完成せず、ここをくぐったのは死後のこと。
第2次世界大戦中のパリ陥落のとき(1940年)にはヒトラーと機甲師団が通ったし、その後のパリ開放(1944年)のときには歓喜のパリ市民がここに集まった。
そんな歴史を見続けてきた証人、そして花の都パリの象徴「凱旋門」が今、目の前にある!身震いがするほどの感動!どんよりした曇り空。その低い雲に届きそうで、より大きく力強く感じられる。
地下道を通って凱旋門の真下へ向かう。
地下道の途中で凱旋門の中へ入るチケットを購入。16ユーロのところを60ユーロを差し出して、窓口のネーちゃんに笑われる。ケタ数が2つも違うので、まだ金銭感覚がずれていて聞き間違いに気付けない。でも、ネコババされてたことを思えば笑われるくらいなんでもない。
地上にでると、まさにそこは凱旋門の股のした。凱旋門はロータリーの中心に位置しており、周囲をグルグルと車が走っている。車線は結構曖昧で多いところだと4-5台が横並びになっているように見える。
さぁ、凱旋門の胎内へ。螺旋階段をグルグルと昇る。たちまち息があがる。運動不足は否めないが、ウォーミングアップ不足のためもある。なにしろ、
「途中で西洋人に追い付かれたら日本男児の恥」
と、いきなり全開モードだもの。
眼が回り始め息絶えだえになるころ、凱旋門内の広い空間にでる。簡単な史料館のようになっていて、暗めの間接照明が古代遺跡に迷い込んだような感覚にさせる。
このスペースは何のため?設計当時から、こんな風に史料館にすることを目的にしてたのだろうか?
そこから屋上までは階段を昇ってすぐだった。風が冷たく、とても寒い。もっとも、これは薄着のせいもある。「ヨーロッパは猛暑で死者もでた」というニュースが出国前に流れていたので、真夏の服装なのだ。
それはさておき、まずは迷わず門の東側へ。そこには寒さを吹き飛ばす光景が広がっていた。今ここに立っている事実と、目の前に広がる街並みをどう表現したら良いのだろう?言葉もない。放射状にまっすぐに伸びた12本の道路は、これを造った人物が世界に向かって、
「ここが世界の中心なのだ!」
と発信しているかのようだ。
真正面の一番広いのがシャンゼリゼ。その突き当たりに小さく見える細く尖ったのがオベリスク。その向こうのルーブル宮は、ちょっと霞んで見えている。右手にはエッフェル塔。
トレビアン!
丸い金ピカはアンバリット。あの黒い四角はモンパルナスタワー。小さく見える2本の柱が恐らくノートルダム寺院だろう。左手の曇空をバックに白亜の建物が建つ丘がモンマルトル。
ひとつひとつ指をさして名前を確認する作業は実に楽しい。こんな風に初めての街の様子がよく判るのは、出発前にガイドブックで予習したせいもあるが、両親に繰り返し見せられた写真のお陰だったりする。
反対側に回る。
まっすぐな道の先に見えるビル群がラデファンス。さっきはホテルを出て、途中から地下に潜り、そのままメトロに乗ったために見えなかった新凱旋門の先進的な姿も見える。
いかに計算しつくされたとは言え、所詮は人間の手で造られた街なんて大自然の美しさには敵いっこない・・・そう思っていた。
しかし、凱旋門からパリの街を眺めてみると、その考えが間違いだったと思わされる。日本での生活で「街全体の景観」という価値観を持ったことは無い。両親がパリにほれ込んだ理由がわかった気がした。
この美しい街を造ったのはオスマン男爵。強い意思を貫き、実践した第二帝政時代のセーヌ県知事オスマン男爵という人物。彼を突き動かした情熱の源はなんだったのか?そして街の景観を守り続けているパリ市民。どちらにも脱帽。
景色がどんなに素敵でも、やっぱり寒い。夜景を求めてだんだんと人も増えてきたようだが、午後9時半だというのに明るい。このまま夜景までここに居続けたら、初日から風邪ひいてしまう。
一旦、胎内の史料館に退避。その後、頃合いを見て再度頂上に戻ることにする。
冷えた体を寄せあって椅子に座わり、しばしウトウトする。20分くらいたっただろうか?急に人が増えてきた。きっと、表が夜景モードになったのだろう。よし、再び頂上へレッツゴー!
思ったとおり空は夕闇。しかし・・・なんと雨!それも小雨とは呼べないレベル。下が混んで来たのは、雨を避けた人達だったのね。
雨にめげずに頂上を一巡り。エトワール広場を取り囲む、すべて同じ形をした建物達。それらが美しくも幻想的に浮かび上がっている。雨に煙るシャンゼリゼ通り。濡れた石畳に車のライトが反射してロマンチックだ。
右にまわるとライトアップされたエッフェル塔がスッとそびえている。それが突然、塔全体からキラキラと光を放ちだした。全身にダイヤをまとったかのようだ。寒さを忘れ・・・はしないが、寒さに堪えてしばしみとれる。
すっかり濡れネズミになってしまい、これからレストランに行く元気もないので、ホテルの部屋で夕食をとることにする。でも、ホテルの部屋の冷蔵庫は空っぽだったし、パリにはコンビニもないので、何か食べ物を買って帰ろう。
シャンゼリゼを東に500mほど歩いたところにある24時間スーパー「モノプリ」に向かう。傘がないので凱旋門の股のあいだでしばしの雨宿りのあと、小雨になったのを見計らって歩き出す。シャンゼリゼ通りデビューは小雨のなかとなった。でも、みんな楽しそうで華やかな雰囲気が漂う。
そもそも、パリジャン・パリジェンヌはこれしきの雨では傘をささない。これは翌日の市内観光のときに現地ガイドさんが話してくれたのだが、パリの幼稚園と小学校は傘禁止なのだそうだ。
傘の先端などでの怪我や、視界不良による交通事故を防止するというのが理由なのだそうな。だから小さい頃からの習慣で、雨に打たれても平気らしい。
だが、我々は平気じゃない。そもそも服装にも問題を抱えている。
モノプリの店内。雨に濡れた体にエアコンがこたえる。いそいそとパン、ジュース、お菓子などを買い、タクシー乗り場を求めてシャンゼリゼ通りを凱旋門方向へ。もう、ラデファンス駅からホテルまで歩く元気はない。しかし、なかなかタクシーが来ない。
それ以前に、タクシー乗り場が路上駐車で占領されてしまっている。こりゃ駄目だ。100mおきくらいにタクシー乗り場があるのだが、どこも同じ状態。しっかりしてくれパリ市警。
ようやくスペースが確保されたタクシー乗り場を発見し、待つこと数分。我々は車中の人となった。走り出すとすぐに地下へと潜る側道へ入り、再び地上へ出ると凱旋門が真後ろに過ぎ去っていた。エトワール広場をアンダーパスしたのだ。ちょっぴり味気ないが、そんな感傷よりも寒さの方が勝っている。
初日からぐったりとして部屋に戻り、熱いシャワー浴び、ワインとパンだけの質素な食事をとる。キリストは、ワインを自分の血、パンは肉だと言ったとか・・・。
午前0時30分就寝。日本時間に置きかえると、朝起きて夕方から4時間ほど昼寝して、夜遅くにチェックイン。それから明け方まで出掛けていた計算になる。まさに「綿のように疲れた」っていう状態。もう若くない。